上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
3月号の「バブルへGOO!!」では、バブルの発生と崩壊を著した。
「バブル景気」は、日本が戦後の焼け野原から、コツコツと復興への努力を積み上げて来た結果でもあった。
日本は敗戦の痛手から、何故これほどまでに復興を成し遂げられたのか。


1945年(昭和20年)8月15日の終戦から今年で67年が経った。
戦争があったことさえ知らない若い人達のためにも、今ある日本がどのように歩んで経済大国と成り得たのか。
先月に続き池上彰さんの「やさしい経済学」を参考に、戦後の日本復興の道のりを経済学から振り返ってみたい。



「戦後のインフレ対策 新円切り替えと封鎖預金」
1945年8月15日、日本は終戦を迎えた。
外地にいた約330万人の軍人、軍人以外の軍属者の復員や引き上げが始まる。
‘46年京都の舞鶴港には軍人、軍属者が中国本土から104万人、東南アジアから79万人、
旧ソ連から45万人など約310万人が帰還した。

二葉百合子さんが歌った「岸壁の母」は、外地から帰らぬ息子を舞鶴港で、
日々出迎える母の実話をもとにした歌だ。
「♪母は来ました 今日も来た この岸壁に今日も来た・・・」、生死不明で復員名簿に息子の名前はないのだが、
「♪もしやもしやに ひかされて・・・」と、母の切ない気持ちを歌ったものだ。
子供の頃はこの歌の意味が分からず聞いていたが、今は子を持つ親として、涙なくしては聞かれぬ歌である。

戦争に敗れ日本軍はなくなり、帰還した軍人や軍関係者に「退職金」が一斉に支払われた。
又政府も軍発注物資の代金支払いを強行実施したために金融流通が膨大した。
お金は溢れていたが、敗戦争直後の日本には物が無い。猛烈な「物価の値上がり」になる。
お金はあるのに物が無い、急激な「インフレ(インフレーション)」状態になる。
日本政府はインフレ対策が急務となった。


世の中に出回っているお金を減らすために、「新円切り替え」と「封鎖預金」を行ったのだ。
’46年2月に日本政府は、「古いお札は廃止して、新しいお札でないと使えなくなりますよ!」
と国民に呼びかける。

古いお金をすべて銀行に預金させ、新円に交換させる政策だ。これが「新円切り替え」である。
その上で、その預金を一度に全部引き出すことが出来ないように、「封鎖預金」を実施する。
古いお金を銀行に預けさせて、新円を引き出す金額に上限を設けたのだ。
世帯主300円、家族一人当たり100円を引き出せる制度にした。
給料は500円を新円で支払い、残りは封鎖預金にする。
これによって世の中に出回っていたお金が激減し、日本政府は戦後のインフレ退治に成功する。

頭いいね!経済を理解して行う制度はうまくいくのだ。
しかし、新円切り替えでは新しいお札が間に合わずに、現行の紙幣に証紙を貼り付けたもので
代用する事態となった。
当時この制度に不満を持つ人は当然多かったのである。


北朝鮮が2009年、インフレ対策に通貨単位を100分の1に切り下げる、
「デノミ(デノミネーション)」を行った。
デノミとは通貨の呼称単位を切り下げる事だ。
日本なら「100円は新1円」とするものだ。
北朝鮮では1世帯あたりの、新貨幣切り替えへの交換上限は旧貨幣で10万ウオン(約3、000円)を掛けた。
しかも旧札を新札に替える期間は、たったの1週間である。
日本なら1億円持っていても、3,000円以上の預金は紙クズになってしまうのだ。
如何に経済危機とはいえ、実に乱暴なやり方である。
この政策は更なるインフレを招き大失敗に終わる。
この政策を考え実行した、当時の北朝鮮経済相は、金正日総書記の怒りをかい粛清されたとか・・・。
この経済相も、日本の「封鎖預金」の歴史に学んでいればねぇ・・・。
今日本でこのような「デノミ」などを行ったら暴動が起きるだろう。
こうして戦後の「新円切り替え」「封鎖預金」は、インフレ対策に一定の効果をみせた。



「財閥解体」
戦後の日本はマッカーサー率いる連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に占領された。
これによって日本の独立は失われ、以後6年に渡り統治される。
そうしてGHQは、日本が何故戦争へと突き進んだのか、その原因を探るため経済学的に分析を行った。


1945~‘52年にGHQが行ったのが「財閥解体」である。
戦前の日本は、「三井財閥」「三菱財閥」「住友財閥」「安田財閥」などの、
大きな企業グループによって日本経済は牛耳られていた。
財閥一族が、三菱○○や住友△△などの、子会社を何百と作り経営者を任命する。
その会社の株を保有し、利益はすべて財閥一族に上がってくる仕組みである。

財閥グループの独占企業のために、各企業間での自由競争が起きずに、経済が十分に発展しなかったのだ。
更に「労働組合」が禁止され、賃上げ要求が出来ないために、労働者は低賃金で消費が伸びない状況であった。
財閥の独占的企業経営、労働者の低賃金などが原因で、新天地である中国や東南アジアへ、
資源を求め進出して行ったのが、戦争を起こした原因でもあると分析したGHQは財閥を解体する。

労働者は低賃金だったが、財閥本社の正社員は高給で、東北北海道出身のお手伝いさんを雇い、
暮れのボーナスは東京都内に家一軒買えるほどの額であった。

今なら都内に土地家屋を購入するとなると5.000万円程だろうか。(スゲー!)
在職中に家を数軒買い、引退後はその家賃収入で悠々自適の老後を送っていた。
現在も「格差社会」などと言われているが、当時の格差は今よりも大きかったようだ。

そこでGHQは、労働者の賃金が上がり消費が活発になると、経済が発展して生活が豊かになる。
そうなれば国外に侵略することも無くなるだろうと考えたのだ。

「労働者の給料が増えると経済が発展する」は、まさしく「ケインズの経済学」の教えである。
GHQは‘45年に「労働組合結成」を推奨し、‘46年3月に労働組合法が施行された。
同年5月1日には、禁じられてきたメーデーが11年ぶりに復活し、皇居前広場(宮城前広場)に
50万人もの人々が集結した。

これを機に多くの労働組合が生まれ、‘47年には組合員が500万人を突破する。
すべての労働者の占める組合員の割合が60%の時代もあった。

しかし最近は激減し労働組合員数の割合は、2010年には18.5%にまで落ち込んで入る。
GHQによって財閥が解体され、その経営陣は戦争責任を問われ「財界追放」となる。
そうした旧経営者陣には高齢者が多く、後数年会社を勤め上げれば、毎月給料は貰えて、
退職金も出るといった考え方で、経営方針も「現状維持」的な守りの姿勢であった。

しかし財界追放で経営陣が一掃され、社長、副社長には30~40歳代の若い世代が就任するようになる。
今まで「なんぼやったって、オレたち社長になれないよな・・・」と、愚痴っていた若い世代が
重役に就任したものだから、張り切って仕事に励むようになる。
これから会社で30~40年も働く事になる。
それならば会社を発展させよう、大きくしようと、様々な新規事業を企画実行していくのだ。
旧経営者の「守り」から、「攻め」の経営姿勢へと転換していったのだ。
こうして日本企業の経営陣は一挙に若返り、経済は活性化していく。


しかし、その後には、この経営陣も「オレが作った会社だ!」、「オレが大きくした!・・・」と
自負があるから、60代70代80代まで会社に居座り、若返りが図れない状態になってしまう。
旧経営陣が財界を追放され、自分達が若き経営者となり、日本経済を発展させてきたのに、
次世代を育てられない結果となった。
世の中は常に流動的だ。
経済も例外ではなく、その時代の流れを受けて、次世代に引き継ぐことも経営者の責任でもある。
GHQの「財閥解体」で、日本経済は新しい時代を迎えたのだ。




「農地解放」
戦前の日本は、財閥同様に大地主が土地を所有し、小作人を使って農業を行っていた。
しかし農業生産は伸び悩み、日本の食糧事情は悪く慢性的な食糧不足に悩んでいた。
その原因をGHQは、大地主に使われている小作人の利益が低いため、生産意欲が無く、
生産が伸びないと分析する。
その解決のために、農地を大地主から小作人に分け与え、農作業に励むようにしたら生産量が上がるだろうと
考えたのだ。

‘46年に農地を大地主から小作人に分け与える「農地解放」を実施した。
今まで厳しい農作業で作物を収穫しても、すべて大地主に摂取されていたのが、
これからは作れば自分の利益になるのだ。
こうなると俄然やる気になるのが人の情であろう。
霜が降るとなれば、焚き火で畑の周りを暖め、台風が来たら雨風を防ぐように努めるのだ。
GHQの分析通り、農地解放以後の生産量は爆発的に上がったのだ。

しかし、これまで収穫物の運搬や販売は大地主がすべて行っていたので、イザ収穫しても、
小作人はそれらをどうやっていいのか分からない。
そこで作られたのが「農業協同組合」農協で、現在の「JA」である。

中国では毛沢東(もうたくとう)が、‘58年から「大躍進政策」の名の下に、農工業の大生産政策を行った。
中国では土地は国の物だが、農民達は「人民公社」の社員となり、多くの人達が共同生活しながら、
みんなの土地を、みんなで耕し、みんなで収穫する政策を行った。

夜明けから日暮れまで、農作業に強制従事させられるために生産意欲が湧かない。
しかもみんなの農地であって、自分の農地ではないのだ。
霜が降ろうが、台風が来ようが、「知ったこっちゃ無い!」と無関心である。
そのために農業生産量は激減し、自然災害も重なり、大躍進政策は3年で大失敗に終わる。
その結果餓死者が出るなど、長く食料不足に苦しめられる。

しかし毛沢東没後の、中国の指導者鄧小平(とうしょうへい)がこれを改め、
土地を農民それぞれに請負労働での農業政策を行った。
「農作物の一部は国に納め、残りは農民の収穫利益にしてよい!」との政策を行った。
とたんに農業生産が劇的に伸びたのだ。やはり「自分の利益」にならないと、人はやる気にはならないのだ。
鄧小平は身長150㎝の小柄で、ナポレオンの身長156㎝ より低いために、
「唐辛子風味のナポレオン」というあだ名がある。
毛沢東は彼の性格を、「綿中に針を蔵す」と表現した。
綿で柔らかいと思って掴むと刺される、人あたりは柔らかいが芯は固いの意である。

 北朝鮮では農作業を奨励する、ブラスバンドのような「激励隊」が、
「ガンバッテ農作業に励みましょうと、農家を回って歩くそうだ。
「働け!働け」と毛沢東のような政策を行っているのだが、農業生産量は伸びず、
飢え死にする国民が増えているのが実情である。
自分の利益にならないのに、上から「働け!働け」と言われても労働意欲は湧かないだろう。
「働けば豊かになる」仕組みにすれば、人は一生懸命に働くのだ。

日本ではGHQの農地解放政策によって、農業生産が向上し戦後の食糧不足解消につながったのだ。
料理長、シェフ諸君!若い人達のやる気をうまく引き出しているかい?




「傾斜生産方式」
 日本は戦後復興に向けて、電力エネルギーを確保するのが急務であった。
子供の頃(昭和20年代)は、昼夜問わず停電が頻繁に起り、いつ復電するのかわからない時代だったな。
様々な産業を振興させるためには、電力エネルギーが不可欠であった。
戦争で壊滅状態にあった、発電所を復興させるために、電力にすべてのエネルギー、すべての力を、
一方的に注ごうとしたのが「傾斜生産方式」である。
火力発電には石炭が必要であった。

しかし、戦争のために炭鉱は乱掘され落盤事故など危険な状態だった。
その鉱内を補強整備するためには鉄が必要になった。
鉄を作ろうと計画するが、鉄は製鉄所で鉄鉱石を溶かして作る、その溶かすエネルギーには石炭が必要なのだ。
しかし炭鉱は危険な状態で石炭を採掘できない。
石炭がなければ鉄が出来ない。
鉄が無ければ炭鉱整備が出来ない。
石炭が無ければ鉄が作れない。
石炭が無ければ発電所が稼動出来ない、
二進(にっち)も三(さっ)進(ち)も行かない状況に追い込まれた。

そこで日本政府は、鉄工所を稼動させるためアメリカに「重油の援助」を申し込む。
その重油で鉄を作り、炭鉱を整備し石炭を掘り出した。
その石炭で発電所を稼動させ、電力を家庭や産業に供給したのだ。

電力を供給することで肥料工場も稼動し、肥料が作られ農業生産の向上に役立ったのだ。
僕の生まれた砂川市豊沼町にも、三井東圧の肥料工場があり、
子供の頃は朝出勤する大勢のオジさん達が逞しい背中を見せながら、
国道を塞(ふさ)がんばかりに自転車を走らせ、工場へ向かって行ったのを思い出す。
オジさんたちのあの姿も、国の政策「傾斜生産方式」の現われだったのだ。

こうして発電所が復旧し、電力は経済を活性化し、人々の暮らしを灯し豊かにしていったのだ。
傾斜生産方式は見事に成功したのだ。




「朝鮮動乱」
1950年6月25日朝鮮戦争勃発する。6月25日この日を韓国では、「6・25ユッイオ」と呼ぶ。
北朝鮮軍が韓国に奇襲攻撃をかけてきたのだ。
これによって韓国軍は総崩れとなり後退を余儀なくされた。
韓国軍支援のためにアメリカ軍が国連軍として参戦した。
韓国へ派遣されたのは、日本を占領していたアメリカ軍であったため、日本に軍隊がいなくなってしまった。
当時すでに東西冷戦が始まっており、ソ連軍の日本侵攻を懸念した、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥は、
同年8月に日本政府へ7万5千人の「警察予備隊」の創設を指示する。
‘52年8月には沿岸海上警備隊が創設され、‘54年7月には防衛庁(防衛省の前身)が設置され、
陸海空からなる自衛隊が誕生した。この朝鮮動乱のため、アメリカから軍事物資が大量に発注される。
この「朝鮮特需」によって、日本経済が大きく発展してゆくきっかけとなった。

その後韓国は、朝鮮動乱でアメリカ軍が支援してくれたことへの恩返しのために、
‘60~‘75年のベトナム戦争で、アメリカ軍支援のために韓国軍を派遣する。
これによりアメリカは軍の物資を、韓国に発注し「特需」となり、その後の経済発展へとつながるのだ。




「貯蓄増強運動」
戦後日本経済発展のためには、工場を作り生産を増やすことが不可欠であった。
その工場建設には資金が必要である。
しかし銀行からお金を借りようにも、当時日本はまだ貧しく銀行にはお金がなかったのだ。
そこで‘52年(昭和27年)から、政府は国民に「貯蓄増強運動」を大々的に奨励する。
国民のお金を銀行に集め、国政に役立てようとしたのだ。

子供達にも手持ちのお金や、お小遣いを銀行に預けて貯金をしましょうという、
「子供銀行」などの教育指導をしてゆく。
ここから日本人の「貯蓄好き」が始まったと言われているが。これはあくまでも推測である。

これは僕も記憶がある、「学校貯金」だ。
小学校1年生の時(昭和30年)、同級生達は1~2円を家から貰ってきて貯金したが。
僕は伯父さんから貰った、1円札10枚、そう10円を担任の尾谷先生に、「ハイ」と言って差し出した。
それを見た同級生一同から、「スゴーイ!」と感嘆の声があがったのだ。
なんか自分が他の同級生よりも、お金持ちのような気分になって、少し誇らしげな顔だったべ。
思えばかわいい子供だったなぁ!
こうして日本国民一丸となって「貯金!貯金」に励んだのである。

当時1円は札だったのだ。(写真参考)これは大切に保管していた手持ちの1円札である。
仏壇の引き出しに入れてあるので、チト線香臭いぞ!

こうして銀行に預金され、企業に融資して日本経済の発展に役立っていく。
メキシコに「キッザニア」というテーマパークがある。
入場料を支払い、そのテーマパーク内だけで使えるお金を受け取り、それで買い物をする。
又職業体験でお金を稼いだりできるのだ。
日本の経営者が、それを見て「これは面白い!」と、メキシコの「キッザニア」と提携を結び、
「キッザニア東京」を開設した。
メキシコの子供達は、稼いだお金は全部使い切って帰って行くが。
日本の子供達は、次に来る時に備えて、パーク内の銀行ATMに、たっぷり貯金して帰るそうだ。
日本とメキシコの子供達のお金に対する意識の違いが表れている。
キッザニア東京の子供達のお金に対する意識も、戦後の「貯蓄増強運動」から、
引き継がれているのだろうう?・・・。




「所得倍増論と社会資本整備」
1960年(昭和35年)当時の池田勇人首相は「所得倍増論」を表明する。
池田首相は、「・・・設備がどんどん増えれば、生産が伸びる。
生産が伸びれば、1人あたりの所得が増える。所得が増えれば、政府は減税をする。
生産が伸びれば、所得が増加する。所得が増加すれば、減税をする。
減税をすれば貯金をする。
貯金をすれば潤う。
雪だるま方式であります」と、これから10年で国民の所得を倍にするという、とてつもなく景気のいい話を
持ち出したのである。

これを聞いた国民の大半は「なにを馬鹿なこと言ってんだ!」と、冷ややかに受け止めた。
父も「おおっ給料が倍になるぞ!」と、冗談半分に言っていたのを思い出す。

これを実現するために、池田首相は大蔵大臣に田中角栄を起用するなど、個性溢れる政治家を内閣に揃え、
政府の経済政策の姿勢を明確に打ち出していく。
こうして「戦後復興期から高度経済成長期」へと移行してゆくのである。
まず日本の経済を更に発展させるためには、物流を活性化する必要があった。

そのためには、道路や港湾整備が急務であった。
こうした「社会資本整備」に国家予算をつぎ込んでいく。
今風に言うと「インフラ整備」である。
というのも、戦時中ゼロ戦(零式艦上戦闘機)を、名古屋の工場から、岐阜のかがみ原の飛行場まで運ぶのだが、
トラック輸送だと、舗装されていないガタガタ道のために、ゼロ戦が破損故障するおそれがある。
そのために牛車で恐るおそる、運んでいたのだ。
日本海軍が当時世界一の性能を誇ったゼロ戦を運搬するのに、牛車で運ぶとはなんとも笑えぬ話である。
日本の道路状況はそれほどの劣悪さであった。


子供の頃(昭和20年後半)砂川に住んでいた時は、国道12号線は舗装されていたが、
三井東圧の社宅などの生活路は砂や砂利が敷かれただけだったな。
石炭などを運搬するにも馬車を使っていたから、馬糞が道に落ちていたのだ。
今の若い方達は、田舎の人でもない限り、馬糞など見たことはないだろう。
それが風に吹かれて舞い上がり、「馬糞風」などと、たいそう迷惑がられた時代だ。

戦後アメリカの調査団が、日本の道路状況を視察のために訪れ、舗装されていない日本の道路を見て、
「日本には道路予定地はあるが、道路は無い」と本国へ調査報告を送った。
アメリカでは「舗装されていて始めて道路」なのだ。
これでは戦争に負けるわな!

そのような道路状況を改善しようと‘64年に「東海道新幹線」、‘
68年には「東名高速道路」「名神高速道路」などが開通し、東京と大阪、日本の東西を結ぶ大動脈が完成したのだ。
これによって国内の物資の流れがスムーズになっていき、工場で作られたものは全国各地へ、
港からは海外へ運ばれ輸出も伸びていくようになる。
この新幹線や高速道路建設資金は、「世界銀行」から借り入れられた。
東京駅には「東海道新幹線は世界銀行から借りたお金で作られました」という碑が残っている。
この頃、理工系の大学、学部を増やしてゆく方針がとられた。
そこで技術者を育て企業や研究所に就職させ工業の発展を図っていったのだ。

こうした工業化によって、工業用水やチッソなどの廃液たれ流しによって、付近の住民に悲惨な被害が及ぶ。
4大公害の1910年岐阜県の「イタイイタイ病」、‘56年「熊本水俣病」、
‘60年の「四日市ぜんそく」、‘65年の「新潟水俣病」が、大きな社会問題となる。
公害問題は高度経済成長が産み出した影の部分である。




「高度経済成長期」
さて政府が所得倍増と表明したことにより、労働組合は会社側に賃上げを要求する。
企業もこれから景気が良くなり、製品が売れるのだからと昇給に応じていく。
国民が冷ややかに受け止めた、池田首相の所得倍増論が現実のものとなった。
そうして各企業は所得増を見込んで製品を増産していく。

その当時の憧れの製品が「3C」と言われるもので、「Cooler(クーラー)」
「Color Television (カラーテレビ)」「Car (カー)」であった。
クーラーで暑い夏は涼しく快適に。
テレビはカラーで見られる。
日曜日には家族揃って車でドライブだ。
こうしたものは、「お隣が買った!」と分かりやすく、「じゃ家(うち)も買おう」となって、
次から次へと需要が伸びていった。

しかし、クーラーはまだまだ一家に一台とはいかず、まずは会社に取り付けられた。
そうなると夏の暑い日々、夕方仕事を終えて家に帰ってもうだるような暑さに辟易する。
それならクーラーで快適な会社に残って仕事をしよう、残業代も付くというサラリーマンが増える。
こうして高度経済成長期には、会社で夜遅くまで仕事に励み、家族家庭を省みない、「モーレツ社員」が生まれた時代である。
そんな人達の勤勉さが積み重ねられ、日本経済は発展してきたのだ。




「東京オリンピック」
敗戦の暗い日本を明るくしたニュースもあった。
‘49年の古橋廣之進さんの水泳世界新記録樹立、湯川秀樹博士のノーベル賞受賞。
‘56年には荻村伊(おぎむらい)知(ち)朗(ろう)さんの卓球世界選手権優勝などが、
日本人を勇気付けてくれたのだ。

しかし戦後の日本人の意識を大きく変えたのは、‘64(昭和39年)年に開催された、
「東京オリンピック」であろう。
東京オリンピックが決定したのは‘59年(昭和34年)で、わずか5年間でオリンピックの準備を
突貫工事で行ったのだ。
思えば戦後からわずか19年目で成しえた快挙であった。


当時中学3年生だった僕は、テレビ中継で五輪選手村の調理場で帝国ホテルの村上信夫料理長が
フライパンを振る姿に憧れて料理人の道を志したのだ。

現在は大都会となった東京だが、当時の川にはゴミや生活排水が捨てられ、
悪臭を放っているような環境であった。
東京都は1兆円余りの予算を計上し、ドブ川を整備し、暗渠には蓋をして、バラック小屋の建物は
塀で覆い隠すなど、街の美化運動が推進された。

川を埋め立て道路が拡張され、路面電車は廃止され地下鉄になる。
東京都内に高速道路が走り、羽田と都心を結ぶモノレールなど交通網の整備が行われた。
世界初の超高速鉄道、東海道新幹線が開通し、日本の鉄道技術の高さを世界に知らしめた。

海外からのお客様を向かえるための、ホテルが不足していたため、国は60億円を融資して
ホテルの建設を支援した。
生きて動いている外国人を見るのは、始めての日本人もいたのだ。
当時日本初の17階建て高層ホテルのニューオータニなどは、オリンピックの前年4月1日に着工し、
翌年の昭和39年9月1日に完成させる超突貫工事だった。

東京オリンピックのために、すべての準備が整ったのは開催の一ヶ月前であった。
又バーやキャバレーなどの風俗営業は、改正風俗営業法により、深夜営業禁止となったのもこの時期である。
オリンピック建設ラッシュの陰で、浅草海苔の生産者たちの漁業権放棄など多くの犠牲も強いたのだ。
当時は事務職の女性を「ビジネス・ガール」、BG(ビージー)と呼んでいた。
しかし外国人に、ビジネス・ガールでは「商売女」と間違われると、雑誌が改正名を一般公募し、
現在の「オフィス・レディー」O・L(オー・エル)に決まったのだ。


又オリピンピック会場などの、警備に就く警察や自衛隊などの人手が足りず、
日本初の民間警備会社「日本警備保障」(セコム株式会社)が創業されたのもこの頃だ。
記念切手や硬貨が発売され、又「東京五輪音頭」が街中に流れ。
アテネから運ばれた聖火が日本中を駆け巡り、オリンピックムードは更に盛り上がった。

前回の‘60年ローマオリンピックの男子マラソンで、エチオピアのアベベ選手が、裸足で走り優勝し
「裸足の王様」と呼ばれ、日本でも大変な関心が寄せられていた。
マラソン当日、テレビ中継でアベベ選手がシューズを履いて走っていたので、「裸足じゃない!」と、
チョットがっかりしたのを覚えている。
アベベ選手は東京オリンピック男子マラソンでも優勝して、男子マラソンで初のオリンピック2連覇を達成した。
日本中がその開催を待ちわび、成功を願う気持ちがひとつになったのは初めてであろう。
東京オリンピックの開催で、日本は暗かった敗戦国からの脱却を図り、世界に誇れる国となったのだ。
このオリンピックを契機に、旧日本家屋はビルになり、街並みや生活様式、食習慣が変わり始めた。
日本は急速な欧米化へと突き進んでいく。




「豊かな国」
1960年代後半から‘70年代前半にかけ、日本人の生活は段々と豊かになっていく。
そうして、当時は夢だった海外旅行ブームがやって来る。
今や日本では年間9万本もの国際線が離発着するようになったが。
戦後20年間日本政府は、外貨不足を理由に海外渡航を制限し、旅行は国内に限られていたのだ。


‘63年に「業務用渡航」が承認され、外貨持ち出しは年間総額500$以内であった。
‘64年には、年1回限りの「観光渡航」が承認され、その後段階的に緩和され、
‘66年に観光渡航の回数制限が撤廃ようやく自由化された。当時大学卒の初任給が2万5千円だった時代に、
10万円以上もするパック旅行が、「アッ」と言う真に完売したのだ。

当時「JALパック」などのパック旅行がブームで、憧れのハワイやパリに出発したね。
高度経済成長期には次々に工場が作られ、住宅が建てられた。
そのために農地が買収された。農家の人達は、農地を売りお金が入ってくるようになる。
そうすると農協主催の「海外旅行ツアー」がブームになり、大挙してアメリカ、ヨーロッパへ
海外旅行に繰り出した。

初めての海外旅行で不慣れな習慣に様々なトラブルを起こしている。
ホテルの部屋にキーを置いたまま部屋を出ると、オートロックのドアがパタンと閉まってしまい、
部屋に戻れず、下着姿のままで廊下に立ち尽くしまったり。
又パリの一流ホテルのロビーを、腹巻ステテコ姿でうろつき回り、大顰蹙を買ってしまう。
そのために、ホテル側では、「下着姿で部屋を出ないで下さい」などと表示した時代だ。

昭和40年~50年代に、テレビ放映されたドリフターズの「8時だよ!全員集合」のキャラクターで、
加藤茶さんが扮した「はげずらおやじ」である。
ステテコ腹巻、禿げ頭のオジさんが、パリの超高級ホテル「ジョルジュⅤ」のロビーをウロウロする姿を
想像してみてくれたまえ。
蛇足になるが、はげず(・・・)ら(・)おやじ(・・・)の正式名は「加藤茶太郎」である。


又パリの「ルイヴィトン」などの、ブランドショップに大勢で押しかけ、品物を全部買占めていく。
日本人の団体客が来ると、店頭にある商品がなくなってしまうことが次々と起きたのだ。
このような日本の団体ツアー客が、世界中で顰蹙を買った時代であった。

このような事を‘90年代になると韓国人が、海外でやり始め、2000年代になると、
中国人が同じようなことを世界中でやっている。
生活が豊かになり、経済的に余裕が出来ると海外旅行に行きたくなるのだ。
しかし、海外での「ルール、マナー」を知らずに行くと色々なトラブルを引き起こしてしまう事になる。


こうして戦後の日本はGHQと政府による、様々な政策によって世界一の経済大国へと成長してきたのだ。
今「東日本大震災」で、福島原発が壊滅し電力不足が課題となっている。
又財源不足による増税方針や、不景気による労働者の賃金カット、就職難などが国民生活に重く圧しかかっている。
かつて私達の先輩達が、戦後の日本復興のために行った、「インフレ対策」や「傾斜生産方式」、
「所得倍増論」などの、明確な政策を打ち出した姿勢を、今一度省みる時ではないのか。


先月も記したが、若い人達にもう一度この言葉を贈りたい。

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」

スポンサーサイト
 2007年に映画「バブルへGO!!タイムマシンはドラム式」が公開された。
阿部寛さん、薬師丸ひろ子さん、広末涼子さんの主演で、
バブル真只中の東京へタイムトラベルするストーリーだ。
バブル景気に沸き、浮かれる人々の様子が、見事に再現されている。


私自身も料理人としてバブル景気を体験したが、毎日が12月の忘年会シーズンのように宴会で盛り上がり、
「キャビアだ、トリュフだ、フォワグラだ」と、お祭り騒ぎのような消費が続いた。
今のようにフレンチの高級食材が入手しやすくなったのも、あのバブルのお陰である事は否めない。
あの渦巻くような時代の真っ直中にいたら、この景気の良さは永遠に続くと思われた。
そう思う人たちが大勢いたとしても、けっして責められぬ時代の勢いであった。
それだけにバブルがはじけた後は、天国から地獄に突き落とされたような結果となった。

当時のアメリカ連邦準備制度理事会(FRB日銀のような機関)のアラン・グリーンスパン議長は、
「バブルは崩壊して初めてバブルとわかる」と語っていた


映画のストーリーは、2007年日本は800兆円もの借金を抱え、遂に破綻のときを迎えようとしていた。
財務省の官僚下(しも)川路(かわじ)は、その原因が1990年3月30日に、
大蔵省の芹沢金融局長が発表した、「不動産融資取引規制」(総量規制 後述)の行政指導にあったと
考え発表を中止させようと計画する。
 
下川路は昔の恋人田中真理子が偶然発明した、洗濯機のドラム式タイムマシンで、
彼女を‘90年3月の東京へ送り込み、
「不動産融資取引規制」の発表を中止するように芹沢金融局長の説得を試みる。
が、直後に彼女は消息を絶つ。

この規制は芹沢金融局長が、自身の儲けのために仕掛けた罠だったのだ。
行き詰った下川路は、真理子を救出するために、真理子の娘真弓を、同じくタイムマシンで‘90年に送り込む。


映画はここから俄然面白くなってくる。
2007年から‘90年にタイムトラベルした真弓が体験する、17年間の時代ギャップが実に面白いのだ。
バブルに沸き立ちディスコで踊る女性たちの太い眉、ソバージュにボディコンスタイルには笑ってしまう。

道行く若者が携帯電話で話しをしているのだが、トランシーバーのような大きさである。
この真弓役の広末涼子さんが、見事にハマリ役でいい味を出している。

‘80年代末から‘90年初めにかけて、日本経済は「バブル景気」に沸きに沸いた。
22年前の事だが、あのバブルに浮かれた真只中で、自分も確かに生きていたのだ。
しかし、バブル景気崩壊後の日本経済は、未曾有の不況に見舞われ、今日に至っても未だに立ち直れない状況にある。

日本経済不況の元凶となった、「バブル」とはどういうものなのか、
バブル景気はどのように生まれ、なぜはじけたのか。
池上彰さんの講座「やさしい経済学」を参考に、バブルを知らない、
今の若い人たちのためにも当時を省みてみよう。



「戦後の東西冷戦」

1945年(昭和20年)8月15日、日本はアジア・太平洋戦争に敗れ終戦を迎えた。
同年8月30日 連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥は厚木基地に到着し、
レイバンのサングラスにコーンパイプを銜えた姿で、飛行機のタラップを踏み日本の地に降り立った。
以後6年に渡り連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって統治される。

そうして、戦後日本とアメリカの貿易再会に向けて、為替レートを決めるためにアメリカから調査団が来日した。
当時の日本の経済状況などから1$=320~340円が相応との調査結果を出す。
その報告を受けた、マッカーサー元帥は、その意見を参考にするも、1$=360円に決定する。

これは日本製品を1$=320円でアメリカへ輸出した場合、1万$だと320万円になるが。
1$=360円の場合、1万$で360万円の収益になる。

現在はその日の相場で、80円から75円になったりする、「変動相場制」であるが、
当時は「固定相場制」で、1$=360円と決まっていたのだ。

マッカーサーは円安に設定して、アメリカと日本の貿易において、日本が有利になるレートにしたのだ。
というのも、戦後アメリカとヨーロッパ諸国の資本主義と、ソ連、中国の社会主義の冷戦が始まっていた。
ソ連を中心に東ヨーロッパなどに社会主義政権が次々に成立し、中国では毛沢東率いる共産党が
‘49年に中華人民共和国を成立させた。


アジアで東西冷戦がはっきりとした形で現れたのは、‘50年6月に勃発した朝鮮戦争である。
ソ連が支援する朝鮮人民共和国と、アメリカが支援する大韓民国の代理戦争だ。
この戦争でアメリカ軍の衣服や兵器などの、軍事物資の補給基地となった日本は軍需景気となり、
戦後の経済復興のきっかけとなる。しかし日本のすぐ傍の、朝鮮半島は戦争で南北に分断され、
北朝鮮は社会主義国家となった。
この事態に危機感を抱いたマッカーサーは、対社会主義政策の一環として、日本に経済力を付けさせ、
「豊かな国」にする必要があったのだ。
それはアメリカの仲間であり資本主義の国は、こんなに経済が発展し豊かな国になるという事を、
アジアの国々へ、又世界の国々へ知らしめるために、日本をそのモデルケースしたかったのだ。


マッカーサーの読み通りに、日本の戦後復興は進み脅威の発展を遂げる。
安価で高品質な日本企業の製品は、アメリカでの需要を大幅に伸ばして行く。
その結果アメリカ企業は日本製品に太刀打ち出来ず、経営が成り立たなくなる状況に陥るのだ。
爆撃機B-29の砲弾で焼け野原になった戦後の日本経済がこれほどまでに発展するとは、
さすがにダグラス・マッカーサーも見通せなかったようだ。
戦後から40年を経た‘85年のアメリカレーガン政権は巨額の財政赤字と、
更には$高のため貿易赤字にも苦しみ経済は窮地に立っていたのだ。



「プラザ合意 バブルのきっかけ」
日本製品の輸出増大に窮地に陥ったアメリカは、「日本なんとかしろ!」と怒りの矛先を向けてくる。
世界経済の中心であるアメリカが不況では、世界的に影響が大きいと、
アメリカの経済危機を救うために、‘85年9月 日本、アメリカ、フランス、西ドイツ、イギリスの
先進五カ国が、二―ヨークのプラザホテルに集まり「\高、$安」への協調介入と、
協調利下げ実施を協議決定した。
アメリカの狙いは、行き過ぎた$高の是正と、景気刺激のための金利引き下げにあった。
この協議は、ニューヨークのプラザホテルで行われたために「プラザ合意」と呼ばれる。

円を高くして、日本製品のアメリカへの輸出にブレーキを掛け、$安にしてアメリカの貿易赤字を解消し
輸出経済を立て直そうとするものだ。
この協議に参加した西ドイツも「$安 マルク高」に合意する。
この協議は秘密裏に行われ、当時の竹下登大蔵大臣が参加した。

では「¥高 $安」にするためにはどうするのか?需要と供給の問題である。
外国為替で「¥と$」を交換することが出来る。
「円を売ってください」と言う人が増えると、円の需要が増えて「\高」になり、
逆に「$は要りません」と$を売りに出す人が多いと、$の需要が減って「$安」になる。

そこで「プラザ合意」に基づき、参加した各国が、「$売り\買い」を開始する。
$を売って、円を買うのが増えるから「¥高 $安」は一挙に進んだ。

プラザ合意から4ヶ月後の‘86年1月に、1$=240円が1$=200円台へと、
一機に40円もの円高が進む。
さらに円高の勢いは進み、’87年には一挙に120円台に突入する。
「プラザ合意」から、僅か2年間で120円もの円高になったのだ。



「公定歩合引き下げと土地神話」
円高が急激に進み輸出産業は大打撃を受け、日本経済は「円高不況」に見舞われる。
‘87年にその景気対策として「金利引き下げ」を行った。
日銀が固定歩合引き下げを5回も行い、最終的に2.5%までに引き下げた。
この2.5%は戦後最低の金利である。
でも、今の銀行金利は0.1%位だから、2.5%でもスゴイ高い金利だけどね。

低金利になると預ける方はあまり得にはならないけど、借りる方は借りやすくなる。
「金利が安いのなら、じゃあお金を借りよう」と、この低金利を利用して銀行からお金を借りる企業が増え、
その借りたお金で土地を買い始めた。

日本は国土が狭く、土地を所有していれば値上がりして必ず儲かるという「土地神話」がある。
こうして不動産に関係のない、鉄道会社や食品会社までが争うように土地買収を始める。

それまで企業は、不況に備えて収益を貯めておく、「内部留保」をしていたのだ。
しかしお金を留保していないで、資金運用し土地の売買で儲けようとする企業が増えたのだ。
当時の著名な経済評論家が、「財テクをしない経営者は、経営者失格だ!」とまで言いだし、
各企業は土地の売買で財産を増やす「財テク」に走ったのだ。

「土地神話」があるため、低金利を利用し銀行からの融資で土地を買う。
その土地を「担保」に、又銀行からお金を借りて別の土地を買う。
又その土地を担保に、銀行からお金を借り別の土地を買う。
日本中の企業が次々に土地を買い漁ったのだ。
「土地ころがし」である。

このように土地の売買を繰り返すのだが、高値になり過ぎて売れなくなった、土地の最後の所有者を
「ババつかみ」と呼んだ。
需要が増えると必然的に土地の値段はどんどん値上がりしていく。
銀行から1億円の土地を担保に8千万円の融資を受け、そのお金で又土地を買う。
1億円の土地でも、すぐに1億2千万円に、イヤ2億円になる勢いである。
銀行も「エーイ!すぐ値上がりするべ!」と、1億円の土地を担保に1億2千万円を融資するようになる。
こうして土地を保有していると、いくらでもお金が借りられるようになり、
企業は、本業以外の土地売買で大儲する「甘い蜜の味」を知ってしまう。



「NTT株」
現在のNTTになる以前は、日本電信電話公社であった。
電電公社と呼ばれ半国営的な会社で、電信電話は電電公社の独占企業だったのだ。
それでは競争相手が無いと、サービスの向上を図るために民営化が決定する。
NTT東日本、NTT西日本、NTTコミュニケーションズなどに分けられ現在のNTTに至る。

電電公社が民営化され、株式会社になり‘87年2月にNTT株が、1株119万円で売り出された。
ところが買う人たちが大勢いたため、買う権利を得るのに「抽選」となる。
抽選で当たった幸運な人たちは、1株119万円で購入したのだ。

しかし、購入できなかった人たちが、株式市場でNTT株を買いに殺到したために、
2ヵ月後には1株119万円が、318万円に上昇した。
たった2ヶ月の間に、1株で200万円弱の値上がりだ。
10株持っていたら2千万円程の儲けになる。
100株、1,000株保有していたら・・・まさに「濡れ手に泡」の儲けである。
株など買った事のない人たちまでが、NTT株を買ったら「アラ儲かっちゃた!」てなことになり。
これまで株に興味の無かった家庭の主婦までが投資を始める、「空前の株ブーム」が巻き起こる。
株が売れ始めると、需要と供給の関係で、必然的に株の値段は上昇する。
株で儲けようと、更に株を買う人が増え株価はどんどん上昇する。



「銀行の憂鬱」
株価が上昇すると、銀行が困ることになった。私達は銀行に0.1%程の利金で預金している。
その預金を銀行は企業に3%程の金利で貸し付け利益を出している。
株式会社が資金を集めるのには3通りある。
1「株を発行する」2「銀行からお金を借りる」3「社債を発行する」である。
しかし株ブームである、
企業は銀行から3%の金利で借りるよりは、金利1%で株券や社債を売った方が、2%もの金利差が出る。
株価は値上がりする一方だから、各企業は株券をどんどん発行して資金を集めるようになった。

困ったのは銀行である。
今までお金を借りてくれた各企業がお金を借りてくれなくなったのだ。
株で儲かった投資家が「次の株を買うまで銀行に預けておこう」と預金する。

又空前の土地ブームで、都市近郊の農家の人たちは、農業を営むより農地を売りに出すと、
何十億円ものお金がドーンと入ってくる。
農家の人はそのお金を銀行に預ける。
銀行にはお金がどんどん溜まる一方で、低いながらも利子は払わなければならない。
企業はお金を借りてくれないから利益が出ない状況になった。

そこで各銀行は、社員に「新規融資先開拓」の大号令をかける。
さて、全日本司厨士協会北海道地方本部の会員諸君なら、この様な経済状況下で「融資先」をどう探すね。

各銀行員は、街中を歩き回り「空き地」を探し出す。
その所有者を訪ねて「土地を遊ばせておかないで、マンションかビルを建てませんか。
その資金をお貸ししますよ・・・」と勧誘を始めたのだ。
次から次へと空き地を探し、その地主を訪ねて勧誘を続けたのだ。
所有者も、ただ土地を遊ばせておくよりは、それじゃマンションでも建てようかと、
次々とマンション、ビルが建ち始める空前の「マンションブーム」が起きる。
銀行はその土地を担保に新規の融資先を獲得したのだ。



「地上げ屋」
マンションブームが起きて、土地の再開発があちらこちらで起きる。
不動産業者がある土地一区画を再開発しようとする。
そこに住んでいる人たちの、家を訪ねて、「この土地を売ってください」とお願いする。
「いいですよ、売ります」と全員揃えばいいのだが。

代々そこで商売を営んできた家は、「ご先祖様に申しわけがない!」と断る人もいる。
不動産会社にしてみれば、20軒のうち18軒は承知しているのに、
他の2軒だけが立ち退きに応じないので計画が先に進まない。
するとどうなるか?
立ち退きに応じない家に、突然無人のダンプカーが突っ込む。
はたまた不審火で家が全焼してしまう。数人の男が鉄棒を手に乱入して家屋を破壊する。
このような事件が頻繁に起きるようになる。
困った土地の所有者は、渋々土地を売り立ち退くことになる。
これは不動産会社が、暴力団を使って行った「地上げ屋」の暗躍である。
当時こうした土地をめぐるトラブルが相次いで起こったのだ。



「買い換え特例」
土地の売買で得たお金には税金が掛る。
しかし、そのお金で別の土地を買うと税金が掛からない、「買い換え特例」の税制処置がある。
地上げが進むなか都心に土地を持っている人たちは、その土地を売り郊外に移り住む人たちが増えてくる。
土地ブームなので都心の狭い土地でも高値で売れるので、郊外に広い土地を買って移り住む。
そうした人たちが増えたために、今度は郊外の地価が、どんどん値上がりする状況になった。



「資産効果」
空前の土地ブームで、自分の住んでいる土地の価格が上がる、坪1万円の土地が5万円になった。
株ブームで持ち株の値段も上がった。
「自分はお金持ちになった」と思う人たちが大勢増えた。

お金持ちになったから何か買おうかと、当時の高級車「日産シーマ」が飛ぶように売れたのだ。
買った人の購買動機は、シーマが「高い値段だから」である。
普通のサラリーマン家庭も、土地購入のためにせっせと貯金していたが、
地価の高騰でマイホーム購入を諦める人たちが増える。
それじゃとアパート暮らしながら、シーマを買い乗る人も多かった。
資産が増えたように感じて、購買意欲が上がるのを「資産効果」と言う。
これなどもバブル現象のひとつである。



「ジュリアナ東京」
景気は益々上昇し、企業各社は収益を増やすが、利益をそのまま税務署に申告して、
税金をたくさん納めるのはバカらしい。
それなら「必要経費で落としちゃえ!」となる。

会社の経費で接待ゴルフや、銀座、赤坂、六本木のクラブで豪遊が始まる。
帰りは会社のタクシーチケットでご帰宅である。
タクシーの運転手さんも近距離よりも、遠距離のお客さんを選ぶようになり、
タクシーがつかまらない状態が続いた。

我が飲食業界にも空前の好景気が到来する。
レストランは「キャビアだ、トリュフだ、フォワグラだ」と、高級食材をふんだんに使い放題、
高級ワインやシャンパンが「ポンポン」抜かれた。
ホテルでは連日連夜の宴会続きであった。

今思うとなんとも羨ましい景気の良さだった。
ディスコ「ジュリアナ東京」では、ソバージュ、ボディコンのお姐さん達が、お立ち台に上がり、
羽根扇子を手に腰をくねらせ踊りまくり姿は、「イケイケドンドン!」と言われ「バブルの象徴」と言われた。
そんなボディコンお姐さんたちの気を引こうと、車で送り迎えする若い男性を「アッシー君」、
金品をプレゼントする「みつぐ(貢ぐ)くん」、食事を奢る「メッシー君」などと蔑んで呼ばれていた。
又この頃、図々しく羞恥心に欠ける中年女性を「オバタリアン」、
品の無い若い女性は「おやじギャル」と呼んだ。
このバブル景気は、日本の文化、芸能、社会に大きな影響を与え、
良しくも悪くも様々なものを生み出した時代でもあった。



「JAPANマネー」
バブル景気に湧き、儲かり続ける企業は、社員の給与もボーナス支給額も大幅アップだ。
日本は消費ブーム一色で、大勢の日本人が成田空港から海外旅行に出掛け、ブランド物や高額商品を買い漁った。日本企業は潤沢な資金をバックに、次々に海外投資を始める。


1989年10月に三菱地所はニューヨークのロックフェラーセンターを約2,000億円で買収。
安田火災海上保険がゴッホの絵画「ひまわり」を53億円で落札。
ソニーがコロンビアピクチャーを推定4,000億円で買収。
更に1990年5月にはニューヨークで、ゴッホの絵画「医師ガシェの肖像」を、
大昭和製紙の名誉会長斉藤氏が124億5千万円の史上最高額で落札する。
当時ハワイのゴルフ場の8割は日本企業が買収していた。
「JAPANマネー」が世界を席巻し、ロックフェラーセンターを買収した時には、
「アメリカの魂を、JAPANマネーが買い取った!」と非難を浴びた。
この海外不動産への投資は、現地の地価を高騰させ、資産税の上昇を招き、地元経済を混乱させる原因ともなった。
「エコノミックアニマル」と称され、JAPANマネーの勢いは世界中から顰蹙(ひんしゅく)をかった。
当時の東京23区の地価合計が、全米の地価合計とほぼ同額だった。
いかに日本の地価が高騰していたかが窺い知れる。



「ブラックマンデー」
景気が過熱し、地価や物価など色々な物の値段が上昇する「インフレ」状態が続く。
そこで日銀は、行き過ぎた景気に歯止めをかけるため、「公定歩合引き上げ」を検討する。

銀行から借りる金利を引き上げれば、借り入れが減るだろうと考えたのだ。
同じ頃ドイツも日本と同様に好景気に沸き、金利引き上げを検討していた。
しかし、1987年10月に、ニューヨーク株式市場で、株価が「大暴落」した。
これが月曜日だったため、黒い月曜日「ブラックマンデー」と呼ばれた。

この株価暴落の原因は、日本とドイツが公定歩合を上げようとしている。
と察知したアメリカの投資家たちが、「$を円やマルクに替えると高い金利が得られるはずだ」、
と考える他の投資家たちが大勢いるはずだ。
その投資家たちは、円やマルクを買うお金を得るために、今手持ちの株を売って、
お金に替えるだろうと先読みをした。
そんな投資家たちが大勢で株を売りに出すと、株の値段が下落するはずだ。
「ヨシ、株価が下る前に株を売ってしまおう」と、大勢の投資家が、我先にと「抜け駆け」して株を売りに出たのだ。

そうして、みんなが一斉に株を売りに出したために、株価は下落し大暴落になってしまったのが、
ブラックマンデーである。
「こういう事が起きるだろうと予言し、その前にやろうとしたらそうなってしまった」。
予言した事が本当に起こるのを、経済学では「予言の自己実現」と言う。
このブラックマンデー騒動が、更にバブルを膨らませてしまうことになる。




「公定歩合引き下げと総量規制」
さあ困ったのは日銀である。
日本景気にブレーキを掛けるために、公定歩合を引き上げると、アメリカの資金が日本に流れ込み
アメリカの株価が下る。
アメリカ政府は「アメリカの株価が下るから、金利引き上げは止めてくれ・・・」と、日本政府に圧力を掛けた。

敗戦以来、アメリカのご意見には逆らえないのが日本である。
アメリカに遠慮した日本は、公定歩合の引き上げは見送られた。
そうして飽和状態のバブルは益々膨らみ続けた。

ドイツも同様に、アメリカから公定歩合の引き上げ中止の圧力を受けたが、
「アメリカ何するものぞ!」と金利引き上げを行い、景気の過熱は避けられたのだ。

さて一般市民サラーリーマンはバブルのおかげで賃金も良く、貯蓄もあるのに地価高騰のために、
マイホームが購入できない。
この状況はなんだ「政治家はナニをやっているのだ!」と言う批判が高まってくる。
そこで1990年3月に、当時の大蔵省が、各銀行に「不動産業者に金を貸すな」と通達、
「総量規制」を指導する。
映画「バブルへGO!!]の、芹沢金融局長の「不動産融資取引規制」である。
と同時に、「土地を所有していれば儲かる」という時勢を抑制するために、土地を売買したお金に
0.3%の税金をかける「地価税」を新しく導入する。
さらに日銀もようやく重い腰を上げ、2.5%だった「公定歩合を引き上げ」、最終的に6%まで引き上げた。




「バブル崩壊」
総量規制のために、銀行から借り入れ出来なくなった企業は、資金繰りに困り土地売買を中止し、
一斉に土地の購入を諦める。今の今まで争うように買っていた土地が、ピタッと売れなくなったのだ。
需要と供給の関係で、売れなくなった土地の価格は下り大暴落する。
「土地神話の崩壊」である。
銀行は地価が上がるから、貸し付けていたのに、土地の価格が下落し、土地が担保にならなくなった。

銀行は1億円の土地を担保に1億2千万円を貸していたよね。
その時に処理していたら2千万円の損害で済んだのだ。

ところが8千万円になったら、4千万円の損失になる。これが「不良債権」である。
しかし、銀行はいずれまた「土地の値段は上がる!」と、バブルの夢が覚めやらぬまま、この問題を先送りする。しかし、土地の価格は更に下落を続け、不良債権は益々増大する。
更に貸付していた企業や不動産会社は、次々に倒産して、銀行は不良債権を処理出来ない状況になる。

‘97年11月に「三洋証券」と「北海道拓殖銀行」が破綻する。
拓銀は北海道の名が付いているが、地方銀行ではなく、全国に支店を持つ大手の都市銀行だった。
我々北海道の人間には拓銀の破綻は驚きだった。
「銀行が潰れる!?」信じがたい出来事だった。拓銀のような都銀が倒産するのは初めての事であった。
同じく「山一證券」が破綻。
この11月に銀行2社、証券会社2社が破綻している。


銀行同士でお金を融通しあう、「コール市場」と言う仕組みがある。
銀行同士なので、信用貸しの担保なしで貸し借りするものだ。
ところが三洋証券が倒産したために、お金を貸していた銀行は返してもらえない事態になった。
こうなると金融機関同士が、「あそこの銀行は大丈夫か?」と、「疑心暗鬼」になり銀行間の貸し借りがなくなり、
世の中の金回りが非常に悪くなる弊害が出たのだ。

銀行からお金を借りて、土地や株を買っていた人たちが、お金を借りられなくなり、
日本経済は更なる大打撃を受け、次々と会社が倒産する。
‘91年の4月から9月の倒産負債総額は3兆9、000億円と、昨年の5倍にもなった。
資産効果で浮かれていた人たちも、持ち株を売り払い、
日経平均株価はバブル時ピークの3万9千円台を大幅に下落し、株価は大暴落を続けたのだ。

戦後のダグラス・マッカーサーによる日本経済への方針から、バブルのきっかけとなった「プラザ合意」や、
「公定歩合引き下げ」「土地神話」「NTT株の売り出し」など、様々な要因が複雑に絡み合い、
バブルが発生し膨らんでいった。
その膨らみすぎたバブル対策のため、政府のとった「総量規制」「地価税の導入」。
日銀による「公定歩合引き上げ」などの規制が重なり、景気の下落を招き「バブル崩壊」を迎える。
その後日本経済は、物価が下がりお金の価値が極端に上がる「デフレ」の時代になり、長い低迷期を迎える。
それは2012年の今もなお続いている。


「山高ければ谷深し」、バブル景気があまりにも激しかっただけに、その後の日本経済への反動は更に大きいものとなった。

さて映画「バブルへGOO!!」は、下川路や真理子、真弓らの活躍で、
芹沢金融局長の不動産融資取引規制を阻止する。
‘90年から2007年に戻った真理子と真弓は、時勢が変わっている事に気付く。
下川路総理大臣の下、日本経済は見事に立ち直っていたのだ。
政治家、官僚たちの政策は、日本の行く末を大きく左右するのだと、教えてくれる映画でもある。



札幌の街中でもビルの間の狭い空き地に、車が5~6台停められるような小さなコインパーキングを
よく見かける。
マンションやビルを建てるには狭すぎるスペースだ。
バブルが崩壊し、土地買収の途中で頓挫してしまい、「売るに売れない 買うに買えない」、
状況になったのだ。
土地を遊ばせてもおけず、コインパーキングにしているのだ。
あの小さなコインパーキングは、バブルの夢の痕なのである。


景気が良いのはいい事だ。
しかし、バブルを知らない世代の若い人達が、再び同じ過ちを踏まぬように、最後にこの言葉を贈りたい。

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」
普段の食生活の中で、感じる味は「甘味」「塩味」「酸味」「苦味」「旨味」だ。
この五味が基本味といわれる。

他に「辛味」「渋味」「えぐみ」などを感じる。

中でも最もおいしく感じる味は、やはり「甘味」であろう。
「甘い水」「しょっぱい水」「辛い水」が並んでいたら、やはり甘い水を飲むだろう。


昭和30年代、子供の頃に家族連れでデパートの食堂や不二家へ行って、「パフェ」を食べるのが最高の楽しみだった。
子供にとって「甘味」は最高のおいしさだ。
子供の頃ほどの欲求は無いにしろ、大人になっても甘いものが大好きで、「甘いものは別腹!」と、
自分にも甘くなり満腹でもデザートを食べてしまう。
他の味とは違い、甘味は特別なおいしさを感じる「味覚」のようだ。


味覚に関する著書も多い、京大大学院農学研究科の伏木亨教授の著書、「コクと旨味の秘密」で
甘味を感じない実験を行っている。
『インドに自生する植物で「ギムネマ・シルベスタ」の葉を30秒ほど噛むと、
1時間ほどまったく甘味を感じなくなる。
甘味のない世界は、砂糖は砂粒、まんじゅうは砂のかたまり、チョコレートは石けんの固まりを噛んだようになり。
ケーキの生クリークリームは練り歯磨きのようだ。

みそ汁は厳しい味でダシのうま味も甘さが寄与しているように思われる。
おいしいはずのものを食べても味気なさに気が沈む。
甘味を感じないおいしさの世界は「廃墟」のようだ。』と、甘味を失った味覚体験を語っている。

甘味を感じない味覚の世界は「食べる」と言う意欲、すなわち「食欲」が湧かなくなるようだ。
食べる楽しみが無いなんて、地球上の生物はすべて滅びてしまうのではないか。
おいしさとは食に向う「原動力」になり生きていく「源」なのだ。


ご飯を食べ咀嚼し続けると、最後にある味覚は「甘味」だ。
分泌される唾液との関係もあるが、基本的に甘味を核として酸味、苦味、渋味などが、
様々に繋がり複雑に絡み合い食べ物の味が構成されている。
「甘味」は食べ物の味の「源味」ではないだろうか。

甘味は食べ物の中に含まれているが、「塩味」は付けるもので調理の基本となる味だ。
塩には岩塩、海塩などあるが、鴨のコンフィの塩漬けには、精製塩ではなく粗塩を使うように、
料理によって塩を使い分けている。
味噌も醤油も塩で味が成り立っている。

食べ物を焼く、煮る、味を付けるなど料理をするのは人間だけで、他の動物達は、料理はしない。
基本的に「生食」である。
しかし、この生食こそが一番食べ物の味が分かる。だからと言って、それがけっしておいしいとはならない。
調理とは食材をおいしく食べるためのものである。
そのおいしく食べるための、調理の基本となるのが「塩」である。
ポテトフライの塩の一振りで料理が完成する如くである。

「塩振り10年」とは、料理の味付けに塩を振れるようになるには、10年かかる言う格言だ。
塩の一振で味が決まることを戒めた言葉である。


「苦味」は食べ物において、「毒」に通ずる味覚である。
甘味とは対照的に、子供達の最も苦手な味覚である。
「良薬口に苦し」とも言って、子供の頃は粉薬の苦さには辟易したものだ。
今はカプセルや糖衣錠になって服用しやすくなった。

苦味と言うと、コーヒーやビールが真っ先に思い浮かぶが、どちらも大人の味だ。
NHK朝の連続ドラマ「カーネーション」で、昭和初期に主人公糸子の父善作が、カフェで初めてコーヒーを試みる。
恐るおそるコーヒーカップに口をつけ、その味わいにおいしさを感じ「ウムッ!」とうなずくシーンがあった。
そんなコーヒーの香りも、いまでは日本人に受け入れられ愛飲されている。
それとパクチーを始めて口にした時は、その苦味とエグミに思わず吐き出したものだ。
しかし、その味が口に嫌な味で残らないのだ。
食後は口中がサッパリとした爽快感がある。慣れると逆においしさを感じるから不思議だ。

味覚は「慣れ」ると、食べられなかったものが食べられようになる。
それとは逆に、おいしいからと言って、毎日食べたら「飽き」がくる。
特にフォワグラやキャビアなどは、少量食べるからおいしいのであって、腹いっぱい食べる物ではない。
こういったものをたくさん食べると、碌(ろく)でもない人間になるのではないだろうか。
(チョット言い過ぎました。スイマセン!)

それと秋の味覚の秋刀魚(さんま)のハラワタの苦味だ。
「秋刀魚苦味かしょっぱいか」、作家佐藤春夫の「秋刀魚の歌」の一節だが。
この苦みは肝臓にあるのだが、新鮮な秋刀魚のハラワタは苦くはない。
鮮度が落ちるに従って肝臓の中にアミンという成分が出来る。これが苦みの元となるのだ。
秋刀魚のハラワタが苦いというのは、サンマの鮮度が落ちているのだ。


子供の頃、父が秋刀魚のハラワタを旨そうに食べるのを見て真似して食べた。
しかしその苦さに吐き出したものだ。「ナニがそんなにウマイのか?」父の旨さが分からなかった。
なんといっても苦味を代表する食材は、春を告げる「ワラビ」や「フキノトウ」などの「山菜」であろう。
この山菜も年々採れるところが限られて、自生のものは減少するばかりだ。
この苦味は濃淡こそあれ、野菜や果物に複雑で豊かな味わいを作りだしている。

山菜の苦味の奥にある味わいを感じ取り、食に適すよう「アク抜き」などの工夫を探り出した、
先人達の味覚の鋭さ、おいしさへの探究心には敬服するばかりだ。
父のように、秋刀魚のハラワタをおいしく味わえる歳になった。
苦味をおいしく味わえるようになるには、年季がかかるようだ。やはり「大人の味」なのだろう。



東京帝国大学理学部化学科(現東京大学)の化学者池田菊(きく)苗(なえ)博士が、
1908年に昆布の旨味成分である、「グルタミン酸」を発見した。
シイタケのグアニル酸、鰹節のイノシン酸 アミノ酸などの「旨味」は、私達日本人が最もおいしく感じる味覚ではないだろうか。
出汁(だし)の利いた「お椀」の味わいは、「日本人」であることの喜びを感じます。
否が応でもDNAに刻み込まれている味覚です。
そのおいしさは、世界的にも「UMAMI」として認知され、フランスの三ツ星レストランでさえも、
昆布や鰹節の出し汁が使われるようになった。

しかしですよ!フランスのレストランへ行って、「UMAMIです!」などと、出汁のスープなどを出されて、我々日本人が本当においしく感じられものだろうか。
とは言うももの、日本でも「即席出汁の元」が普及し、鰹節と昆布の出し汁はすっかり駆逐されてしまった。
「出汁の味は日本だべ!」などと言っていると、フランスの出汁の方がおいしいなんて、遅れをとる事態にもなりかねんぞ。



「酸味」と言えば「夏みかん」だ。子供の頃は、あの酸っぱさに汗をかいて食べたものだ。
でも食後はサッパリとした爽快感があった。
果物の酸っぱさには甘味も含まれているので、それほど、キツイ酸っぱさは感じないが、酢の酸っぱさはキツイものだ。
ドレッシングのように油と攪拌したり、熱を加えて「カド」を取り、まろやかな酸味を出して使う。
この酢の原料も西洋のブドウ、東洋の米と大別される。

日本では大正時代に大量安価な「合成酢」が作られた。
特に第二次世界大戦中、戦後は食料難から、米で酢を作ることが禁止されていたために、ほとんどが合成酢であった。
このような状況下で料理を作っていた、我々先輩料理人の苦労が偲ばれますなぁ。
酢に限らず酒も「合成酒」で、昭和20年代の子供の頃には、父や伯父が合成酒の「花の友」を飲んでいた。
酢を餡かけ料理などの、濃い味料理に一振りかけると中和され程よい食味になる。
「酢を制するものは、料理を制する」と言われ、酸味は使い方で料理の味わいを格段にアップしてくれる。



「渋味」と言えば、昭和30年代、子供の頃に食べた「渋柿」だ。その渋さには閉口したものだ。
卓袱台に数個置いてある柿を食べるときは、トランプの「ババ抜き」のようなスリルがあった。
黒っぽい種が入っていて、しゃぶるとヤッパリ渋かった。

その頃の柿は釣鐘形で、店先にゴロゴロ並んでいるのを見ると、不揃いながら愛嬌があったものだ。
こういうものを食べていると、明るく個性豊かな人格が出来ると思うのだが。
今の柿は「種無し渋抜き」で、何もかも抜いて無くしてしまった。
さらに箱詰めしやすく揃ったように四角形である。
スーパーマーケットの陳列棚に、お行儀良く並べられているがどこか無表情である。


昨年の12月号でも掲載したが、もうひとつ身近な渋は、「小豆の渋」だ。
母が小豆を茹でこぼして渋抜きをしていた。
その小豆で作ってくれた、「お汁粉」や「おはぎ」の甘さはおいしかった。そのおいしさは温もりにある。
冷えたお汁粉やおはぎは「味の裏切り」だ。
料理人は小豆を「煮る」ではなく、「炊(た)く」と言う。
小豆を炊くと、出来上がりのおいしさが待ち遠しくてワクワクした気持ちになる。
小豆は日本人にとって、特別なおいしさを感じるものではないだろうか。


「渋い」と言えば、高倉健さんの演技もそうだが赤ワインである。
赤ワインには甘辛酸苦渋などの、様々な味わいが含まれている。
このワインの渋味は、寝かせることにより年数が経ち、その渋味や香りがまろやかに変化しおいしさに変わっていく。
この渋味や苦味は消し去るのではなく、程よく残し活かしてこそ、おいしさに変わるのだ。
おいしさの奥深さを知らされる味覚である。


「辛味」も甘味とは違ったおいしさを感じさせてくれる。
しかし辛味、渋味、エグミは味覚ではなく「痛い熱い」と同じような「体感感覚」だそうだ。
コショウは「ヒリヒリ」、ワサビは「ツーン」、山椒は「痺れる」など、それぞれ違う感覚で、
唐辛子入りの辛い料理を食べて、「口から火が出ている」などと表現する。
やはり熱い感覚である。


やはり日本人が好むのは、ワサビの鼻に抜ける「ツーン」とした上品な辛さであろう。
これほどある辛味だが、やはり料理に合った辛味があるものだ。
刺身にはワサビ、オデンには芥子、熱いうどんには一味唐辛子である。
熱いかけ蕎麦にワサビの辛さはどうにも合わない。
このように辛味には各種あり、それぞれ料理に合わせた選択肢が楽しめる味覚でもある。
しかし味覚に於いては、人それぞれに嗜好があるから、熱いかけ蕎麦にワサビを乗せて食べようと、
誰に文句を言われるものではない。
この辛味というのは不思議な感覚で、「辛いからもう食べない!」と懲りるどころか、
1に慣れたら2へ3へと、もっと辛い味を求めてエスカレートしてゆく。
辛味はストレスの軽減にも効果があるとか。しかし、どのような食べ物でもそうだが、食べすぎには要注意である。



「おいしさ」を感じるには、「味覚」「視覚」「嗅覚」「触覚」「聴覚」の五感が働いている。
ウナギやステーキが、こんがりと焼ける香りは「嗅覚」を刺激して食欲がわいてくる。
ウナギの焼ける匂いで、ご飯が食べられるとはよく言ったものだ。


「香り」は、おいしさの大切な要素のひとつだ。
というより「香りが味を決定付けている」といっても過言ではないだろう。
鼻をつまんで食べると、香りがせずに何を食べているのかわからない。
風邪をひいたときに、鼻が詰まって味がしないのと同じだ。

料理の香り付けには、ハーブとスパイスがよく用いられる。
特に西洋料理においてスパイスは欠かせぬ調味料だ。
このスパイスを求めて17世紀にはポルトガル、スペイン、イギリス、オランダがインドや東南アジアへ向い
海を始める。
スパイス獲得権をめぐり、各国間で衝突がおき経済戦争にも発展した。
当時スパイスは料理の香り付けや、肉の腐敗防止に用いるのはもちろんだが、
特にナツメグやクローブなどは、ペストなどの「疫病の特効薬」として珍重された。
しかし欧州からは遠方の東南アジアでのスパイスの獲得には困難を極めた。
そのため、当時スパイスは「金」と同じ価値があり、スパイスを独占することは、
その国に莫大な利益をもたらすのだ。
結局オランダがスパイスの貿易権を独占する。
ジャイルズ・ミルトン著「スパイス戦争―大航海時代の冒険者たち」
(原題「NATHANIEL’S NATMEG」ナサニエルズナツメグ)には、スパイスの独占権を巡る、
イギリスとオランダの間で起こった凄まじい歴史が著されている。
本の題名にもなっている、主人公のイングランド東インド会社の「ナサニエル・コートホープ」は、
国王ジェームズ1世からスパイス獲得の密命を受けて、バンダ諸島のルン島に上陸する。
しかし登場するや否や、すぐにオランダとの戦闘で戦死してしまうのだ。
 本の最後に「ナサニエルズナツメグ」の意味が、なるほど!と納得する結末である。
スパイスの歴史に興味のある方は是非読んでほしい。
その後19世紀半ばには、原産地からスパイスの木が、運ばれた地域で移植栽培され入手が容易になり
価格も安定する。  
普段当たり前のように使っているスパイスも、その歴史を知るにつれて、
軽々しく扱えないなという気持ちになる。
 欧州の人々がスパイスを求めて、どれほどの思いで船出し海を渡ったのだろう。
農耕民族魚食文化の、我々日本人には到底理解の及ぶところではないようだ。
スパイスの香りには、命がけで海を渡った、当時の人々の「情念」が宿っているのではないだろうか。


料理に一番身近なスパイスはコショウだろう。
普段からローリエ、ナツメグ、クローブ、コリアンダー、ターメリックなど、十二,三種類は使っている。
ラムのローストにはタイム、ハンバーグにはナツメグ、ブイヤベースにサフランなど、
料理とスパイスの組み合わせは、長い歴史に培われ調製されてきた。 
そんな先人たちの料理に使うスパイスの知識、探究心にはただただ頭が下るばかりだ。

しかし、スパイスは使い方を誤ると料理を台無しにしてしまう。使う時には、くれぐれも慎重に・・・。



その香において、人々を惹きつけてやまない食材は、なんといっても「トリュフ」だろう。
トリュフの香りは、愛好家にとって、その価値は「黒いダイヤモンド」となりうる。「どんな香り?」。
この香りをなんと表現したらいいのか?
始めに感じた香りは「海苔の佃煮」だった。「土」「ホコリ」「汗」・・・。 
簡単には表現できない「神秘的」な香りとしか言いようがない。(言葉足らずでスイマセン)

近年はフランスとイタリア産共に、トリュフの獲得高も減少するばかりで需要は増す一方だ。
そうなると、必然的に価格は高騰する。
黒トリュフで通常価格はkg15~16万円。
需要が増える年末繁忙期のクリスマスシーズンになると、価格はkg20万円程度になる。(高値過ぎるべ!)
イタリアのピエモンテ州 アルバ産の白トリュフになると、価格はkg50~60万円以上だ。
黒いダイヤモンドに対し、こちらは「白いダイヤモンド」と呼ばれる所以である。
そんな価格高騰のために、近年中国のヒマラヤ産も市場に出回っている。
それでも価格はKg 1万円だが、そのものは「似て非なるもの」で、
フランス産やイタリア産トリュフの奥深い香りには及ばない。
これからも、トリュフの妖しい香りは、その価格と共にトリュフ愛好家の心を惑わすばかりだ。



「食感」「触覚」もおいしさを感じる大切な要素だ。
煎餅を「パリパリ」かじる小気味よさ。
タクアンを「ポリポリ」噛む口中の響きなどは「聴覚」を刺激して、まさに「おいしい音」である。
パリパリとは逆に、なめらかな舌触りも好ましい触味だ。


近頃のお客様は、プリンやムースのような柔らかくなめらかなものに、おいしさを強く感じる傾向にある。
特に最近の若い女性の多くが、好きな食べ物に「生クリーム」をあげる。
「ホイップ」した生クリームなのだ。

若い女性に限らず、現在はみなさん柔らかくなめらかな舌触りがお好みのようだ。
そのなめらかさに、「パリッ」とした食感でアクセントを付けると、食べていて楽しい。
アイスクリームに添えられた、ウエハースの食感がまさにそれだ。

それとば逆に、固い歯ごたえのある食べ物が敬遠されるようになった。
煎餅やかりんとう、キャラメルや飴など、昔に比べたら食べられなくなった。
それとナマコやドライフルーツを噛むときの「圧感覚」もある。
歯茎に食い込むあの食感だ。
イチジクのドライフルーツに齧りつき、歯茎に「ギュウッ」と食い込んでくるあの圧感覚が大好きなのだ。


にぎりずしを摘まむと、シャリの温もりや、にぎり加減などを手に感じます。
その手は意識する、しないに関らず、多くの情報を感じ取っている。
箸で豆腐を持つ、ステーキをナイフ、フォークで切り分けるなど、「触覚」でもおいしさを感じ取っています。
寒い日に湯気の上がる、肉饅頭を両手に持ち「フーフー」するなんて、格別に「おいしい触感」になるでしょう。


フランス料理では、手に持って食べる料理は少ない。
骨付きの肉料理とパンだろうか。だから、お客様にお出しするパンの温度には、気を使った。
ほんのりと温めたパンを手に取ると、そのぬくもりで、お客様は「このパンは、おいしい」と感じ取ってくれる。
この温かさと、冷たさ「温冷」もおいしさには大いに関係している。
暑い夏の日に、冷えた麦茶を「ゴクッ」と飲む、おいしさは最高である。
ぬるいスープや、融けたアイスクリームなどをお出ししたら、お客様にお叱りを受けるだろう。

この温冷におけるおいしさも時代によって違っている。
子供の頃は、スイカやトマトを盥(たらい)に入れ、ポンプで汲み上げた地下水で冷やしていたから、
10~14℃のおいしく味わえる温度だ。
今は冷蔵庫で冷やすので、5℃くらいの冷え過ぎた味わいになってしまう。
今のように冷凍冷蔵庫が無い時代だから、アイスキャンデーは、お店で買って家に持ってくる間に
融けてしまうので、夏の陽射しの中で歩きながら食べたものだ。
齧りついたアイスキャンデーが棒から外れて、足もとの砂利に落としてしまったときはガックリしたな。
落としたアイスキャンデーの口惜しさといったら。今思い出してもハラが立つ。


料理人を志した昭和40年では、調理場でも氷冷蔵庫を使っていた。
今の電気冷蔵庫のように送風式ではないので、食品にラップを被せなくてもよかった。
でも下段に融けた氷の水滴が落ちるのは困りものだった。
冷蔵庫が一般家庭に普及して、食品を冷蔵保存出来便利になった。
でも昔のように、食べ物を塩漬けや糠漬けなどの保存の工夫をしなくなった。
冷蔵庫に食品を保存してもおいしくはならない。



「視覚」も香りと共に、おいしさを決定付けている。
人は目で見て「イチゴだ、バナナだ!」と物を判断している。
食べたことがあるものなら、その味が思い浮かぶ。目隠しをして物を食べると、味が分からないことがある。
さらに目隠しして鼻をつまむと、何を食べているのか味が判断出来ない。
ある実験で、シャーベットに香りを付けて着色せずに食べると、何の香りか区別できないという結果が出た。
又、色合いと違う香り、例えば苺色のシャーベットにバナナの香りを付けると、
実験した半数以上が味や香りを間違えるそうだ。


最近「視覚」の受けるおいしさが、「表示」にも影響されている。
例えば「おふくろの味」「有機栽培」「産地直送」などの表示だ。
スーパーマーケットで「朝採り、産直」と表示された方が「新鮮、おいしそう」の印象を持つ。
野菜でも「オーガニック」と、表示されているだけで「おいしい」の先入観を持ってしまう。
オーガニッは農法であって「おいしさ」ではないのだ。


レストランのメニューにも「シェフ手作り」「○○さんの作った野菜」などと表記されていています。
「だったら、おいしいわよね!」みたいな気になる。
特に日本人はこうした表示やブランドに、弱いとされている。
表示にウソはないのだろうが、「視覚の先入観」が「おいしさ」に与える影響が大きい。

テレビのバラエティー番組で、こんな実験をした。
新しい靴下を、片方は洗濯の物干しに吊るし、もう片方を椅子に腰掛けた臭そうなおじさんの足元に
丸めて置いておく。
交互に靴下の匂いを嗅いでもらうと、九割の人達がおじさんの足元の靴下が「クサイ」と答えた。
「視覚」も「嗅覚」も、まず「先入観」の影響を受けて、「味覚」の正確な判断になるとどうも不確かなようだ。



ではおいしい料理を出せばいいのか、食べたらいいのか。というとそればかりではない。
まわりの雰囲気「環境」も大切だ。どんなにおいしい料理でも、騒音のなかでは食べる気がしない。
やはり、落ち着いてゆっくりと料理を味わいたいものだ。

それに、「ひとりで食べる」というのも味気のないものです。
いかに名シェフが作った料理でも、ひとりではおいしさも半減する。
高齢化社会を迎えて、ご老人の一人暮らしが増え、朝昼晩の三食を一人で摂る「弧食」が増えているそう。
独居老人に限らず、家族と同居していながら食事時間が揃わず、一人で食事を摂る人も多いという。
朝食は摂らない、外食が増える、家庭で作る料理も冷凍品や出来合いのものが多くなった。
食に関するさまざまな環境が変わり、昔のように家族そろって卓袱台を囲み、
食事を摂るといった風情がなくなった。
やはり、家族や気の合う友人、恋人と語り合い食事をするのは楽しいものだ。

孤食とは違うが、ひとりで隠れておいしい物を食べるという、楽しみもなくはない。
戸棚に隠した、一個しかないシュークリームを、家族の目を盗み一人で食べるのは格別おいしい。
知人の女性は、ご主人が寝静まった夜に、「一個200円の梅干を、一人密かに食べるのが楽しみ!」
と言っていた。
チョット「不倫」にも似た妖しい雰囲気で。(やってくれるね。こういう女性大好きです)


おいしい料理には、もうひとつ忘れてはいけないのが「お酒」である。
「酒なくて なんの己が 桜かな」の諺(ことわざ)があるように、
料理をおいしくしてくれるのは「お酒」でしょう。
これ以上のものはないですね。
特に料理とワインの組み合わせは、食卓を楽しくするものです。
ワインには多くの香りが含まれている。特に上等なワインになると、より複雑な香りと味が感じられる。
料理とワインの組み合わせは限りなくあり、それが食卓の楽しみでもある。


ソムリエの方達も、料理の香りにワインの香りを合わせています。
ソムリエの田崎真也さんの著書「言葉にして伝える技術―ソムリエの表現力」では。
お客様に言葉で伝えるワインの香りは、白ワイン92香、赤ワイン55香が表記されています。
一般的にワインの香りは、500以上あるといわれています。
飲食物でもっと多くの香りが含まれているのはコーヒーで798香気成分があるそうです。

ワインもコーヒーも、その蠱惑的な香りゆえに、人は惹きつけられるのでしょうね。
魚料理には白ワイン、肉料理には赤ワインとは、昔からよくいわれる。
「カキにシャブリ」の組み合わせは、昔から定番のような組み合わせですね。


ブリア=サヴァランは言っている、「チーズのないデザートは片目の美女である」と。
お酒のない食卓は、さしずめ「顔のない美女」であろうか。
日々の味覚を探求し、お客さまに味わっていただく、おいしい料理は景気を回復させる「原動力」にもなるのだ。
みなさん新年を迎えました。辰年の今年もよろしくお願いします。


新年早々、みなさんは何を食べたかな?
やはりお節料理に雑煮だろうか。


お正月から吉野家の牛丼だという人もいるだろう。
なんと言っても年中無休24時間営業である。
スズメの鳴き声を聞かない日はあっても、吉野家が開店していない日は無いのだ。
お盆だろうが、大晦日であろうがお正月であろうが、「食べたい」と思えば、いつだって開店しているのだ。
当方の意志とは関係なく、吉野屋は「いつでもいらっしゃいよ!」と待ってくれているのだ。
考えてみるとこれはスゴイ事である。


しかし、よほどの事(ってどんな事?)が無い限り、自分から進んで吉野家へ牛丼を食べには行かない。
今まで食べた回数だって、指折り数えられる程度だ。
人から吉野家の牛丼を、「おごってやる!」と誘われても、「別の店にしよう」と言うであろう。
イヤイヤ誤解しないでいただきたい。
吉野家の牛丼が嫌いなわけではない。が、好きと言うのでもない。
「どっちなんだ!」と言われそうだが、どっちでもないのだ。


ところがだ、先日買った発泡酒の缶横に付いていた懸賞付きシールを剥がしたら、
「吉野家 牛丼並盛1杯プレゼント」が当たったのだ。(スゴイべ!)
あまりの幸運に心中「ヤッタァ!」と、小ガッツポーズなんかする始末だ。
「おごってやる」と誘われても、「すったらもの食べねぇ!」などと威張っていた勢いは何処へやらで、
早速吉野家へレッツゴーである。


吉野家はちょうどお昼時であったが、8割方席が埋まっていた。
若い男性2人が座るカウンターの向いに席を取った。
「いらっしゃいませ」とサービス係りおばさんが、注文を聞きに来た。
「あのー」と、恐るおそる小さな当たりシールを差し出した。
おばさんは「アッ!ハイわかりました」と頷きシールを受け取ると、店の奥のキッチンへ「並一丁」とオーダーを通す。
懸賞で当たった牛丼でお金も払わずに、店を出るのも気が引けるので味噌汁を追加注文した。

見ていると味噌汁もお新香も取らず、牛丼並盛だけを注文するお客様が多い。
備え付けの紅生姜を、牛丼の上に山のように乗せる人もいれば、牛丼の上が赤くなるほど、
唐辛子をひたすら振り掛ける人もいる。

「ツユダク」と注文するお客さんもいる。
いつだったか、この「ツユダク」を、吉野屋で始めて耳にした時、その意味が分からなかった。
「ツユダク」ってなんだ?
注文した若いカップルの丼の中を、そっと窺うように覗き込んだが、自分の「並盛」と何も変わっていないのだ。
そこで店員さんに「ツユダクって何ですか」と聞いてみた。
「アー!牛丼のタレを多めに掛けたものです。お汁(つゆ)をたくさん掛けるのでツユダク(・・・・)です」。
なるほどねぇ、牛丼には牛丼の世界があるのだ。


さて気が付いたら既に満席である。
入り口付近には立ち待ちのお客さんまでいるではないか。吉野家の牛丼人気の高さが窺える。
その人気の元は、なんと言っても「安い早い旨い」にある。
吉野屋は「牛丼並盛」が380円で、ライバル松屋は「牛めし並」が320円である。
どちらも実に安価である。ススキノでは吉野家と松屋の店舗が並んで営業している。
値段が若干安価な松屋の方が賑わっているようだ。


それにしても、日本で日々どれほどの人たちが、吉野家の牛丼を食べているのだろう。
毎日のように、イヤ1日3食、吉野家の牛丼を食べている人もいるそうだ。
「カレーライス」「ラーメン」と共に、日本の国民食と言えるだろう。

BSE問題で米国産牛肉が輸入制限され、日本から牛丼が無くなると大変話題になった。
それほど感心の高い食べ物である。牛丼の中身は「牛肉、タマネギ、ご飯、タレ」で至ってシンプルだ。
それゆえに、ごまかしの利かないストレートさがある。
牛丼の味で一番大切なのは、牛肉のようだが、実は「ご飯」である。
「牛肉だ、タレだ!」などと叫んでも、神代の時代から日本人が慣れ親しんだ、ご飯の美味しさが牛丼の味を決定付けるのだ。


食べてみると、以外と言っては失礼だが「おいしい」のだ。また食べたくなるクセになる味である。
僕達料理人は普段家庭では味わえない、「非日常的」な料理を作っている。
しかし非日常的な料理を毎日食べると飽きるだろう。
それに比べると吉野家の牛丼はあまりにも「日常的」で飽きない味である。
いわゆる「賄料理」と言っていいだろう。だからこそ、毎日のように食べられるのだ。

牛丼を食べていると、向かいの席の若者にも牛丼が運ばれて来た。
その食べ方が、「一気飲み」ならぬ、「一気食い」である。牛丼1杯掻っ込むように食べる。
5分と掛からないのだ。味わうというより、空腹が満たされればいいような食べ方だ。 


この時、ブリア=サヴァランの格言を思いだした。「国民の盛衰はその食べ方いかんによる」。
未来を担う若者が、このような食べ方で良いのだろうか・・・。
料理人は美味しい料理を作るだけではなく、これからは料理の食べ方、味わい方も伝え広めて行くべきではないだろうか。

僕は牛丼を食べ終え、サービスのおばさんに「儲からない客でスイマセン!」と言い、
味噌汁の代金50円をカウンターに置き、満席の吉野家を後にした。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。