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普段の食生活の中で、感じる味は「甘味」「塩味」「酸味」「苦味」「旨味」だ。
この五味が基本味といわれる。

他に「辛味」「渋味」「えぐみ」などを感じる。

中でも最もおいしく感じる味は、やはり「甘味」であろう。
「甘い水」「しょっぱい水」「辛い水」が並んでいたら、やはり甘い水を飲むだろう。


昭和30年代、子供の頃に家族連れでデパートの食堂や不二家へ行って、「パフェ」を食べるのが最高の楽しみだった。
子供にとって「甘味」は最高のおいしさだ。
子供の頃ほどの欲求は無いにしろ、大人になっても甘いものが大好きで、「甘いものは別腹!」と、
自分にも甘くなり満腹でもデザートを食べてしまう。
他の味とは違い、甘味は特別なおいしさを感じる「味覚」のようだ。


味覚に関する著書も多い、京大大学院農学研究科の伏木亨教授の著書、「コクと旨味の秘密」で
甘味を感じない実験を行っている。
『インドに自生する植物で「ギムネマ・シルベスタ」の葉を30秒ほど噛むと、
1時間ほどまったく甘味を感じなくなる。
甘味のない世界は、砂糖は砂粒、まんじゅうは砂のかたまり、チョコレートは石けんの固まりを噛んだようになり。
ケーキの生クリークリームは練り歯磨きのようだ。

みそ汁は厳しい味でダシのうま味も甘さが寄与しているように思われる。
おいしいはずのものを食べても味気なさに気が沈む。
甘味を感じないおいしさの世界は「廃墟」のようだ。』と、甘味を失った味覚体験を語っている。

甘味を感じない味覚の世界は「食べる」と言う意欲、すなわち「食欲」が湧かなくなるようだ。
食べる楽しみが無いなんて、地球上の生物はすべて滅びてしまうのではないか。
おいしさとは食に向う「原動力」になり生きていく「源」なのだ。


ご飯を食べ咀嚼し続けると、最後にある味覚は「甘味」だ。
分泌される唾液との関係もあるが、基本的に甘味を核として酸味、苦味、渋味などが、
様々に繋がり複雑に絡み合い食べ物の味が構成されている。
「甘味」は食べ物の味の「源味」ではないだろうか。

甘味は食べ物の中に含まれているが、「塩味」は付けるもので調理の基本となる味だ。
塩には岩塩、海塩などあるが、鴨のコンフィの塩漬けには、精製塩ではなく粗塩を使うように、
料理によって塩を使い分けている。
味噌も醤油も塩で味が成り立っている。

食べ物を焼く、煮る、味を付けるなど料理をするのは人間だけで、他の動物達は、料理はしない。
基本的に「生食」である。
しかし、この生食こそが一番食べ物の味が分かる。だからと言って、それがけっしておいしいとはならない。
調理とは食材をおいしく食べるためのものである。
そのおいしく食べるための、調理の基本となるのが「塩」である。
ポテトフライの塩の一振りで料理が完成する如くである。

「塩振り10年」とは、料理の味付けに塩を振れるようになるには、10年かかる言う格言だ。
塩の一振で味が決まることを戒めた言葉である。


「苦味」は食べ物において、「毒」に通ずる味覚である。
甘味とは対照的に、子供達の最も苦手な味覚である。
「良薬口に苦し」とも言って、子供の頃は粉薬の苦さには辟易したものだ。
今はカプセルや糖衣錠になって服用しやすくなった。

苦味と言うと、コーヒーやビールが真っ先に思い浮かぶが、どちらも大人の味だ。
NHK朝の連続ドラマ「カーネーション」で、昭和初期に主人公糸子の父善作が、カフェで初めてコーヒーを試みる。
恐るおそるコーヒーカップに口をつけ、その味わいにおいしさを感じ「ウムッ!」とうなずくシーンがあった。
そんなコーヒーの香りも、いまでは日本人に受け入れられ愛飲されている。
それとパクチーを始めて口にした時は、その苦味とエグミに思わず吐き出したものだ。
しかし、その味が口に嫌な味で残らないのだ。
食後は口中がサッパリとした爽快感がある。慣れると逆においしさを感じるから不思議だ。

味覚は「慣れ」ると、食べられなかったものが食べられようになる。
それとは逆に、おいしいからと言って、毎日食べたら「飽き」がくる。
特にフォワグラやキャビアなどは、少量食べるからおいしいのであって、腹いっぱい食べる物ではない。
こういったものをたくさん食べると、碌(ろく)でもない人間になるのではないだろうか。
(チョット言い過ぎました。スイマセン!)

それと秋の味覚の秋刀魚(さんま)のハラワタの苦味だ。
「秋刀魚苦味かしょっぱいか」、作家佐藤春夫の「秋刀魚の歌」の一節だが。
この苦みは肝臓にあるのだが、新鮮な秋刀魚のハラワタは苦くはない。
鮮度が落ちるに従って肝臓の中にアミンという成分が出来る。これが苦みの元となるのだ。
秋刀魚のハラワタが苦いというのは、サンマの鮮度が落ちているのだ。


子供の頃、父が秋刀魚のハラワタを旨そうに食べるのを見て真似して食べた。
しかしその苦さに吐き出したものだ。「ナニがそんなにウマイのか?」父の旨さが分からなかった。
なんといっても苦味を代表する食材は、春を告げる「ワラビ」や「フキノトウ」などの「山菜」であろう。
この山菜も年々採れるところが限られて、自生のものは減少するばかりだ。
この苦味は濃淡こそあれ、野菜や果物に複雑で豊かな味わいを作りだしている。

山菜の苦味の奥にある味わいを感じ取り、食に適すよう「アク抜き」などの工夫を探り出した、
先人達の味覚の鋭さ、おいしさへの探究心には敬服するばかりだ。
父のように、秋刀魚のハラワタをおいしく味わえる歳になった。
苦味をおいしく味わえるようになるには、年季がかかるようだ。やはり「大人の味」なのだろう。



東京帝国大学理学部化学科(現東京大学)の化学者池田菊(きく)苗(なえ)博士が、
1908年に昆布の旨味成分である、「グルタミン酸」を発見した。
シイタケのグアニル酸、鰹節のイノシン酸 アミノ酸などの「旨味」は、私達日本人が最もおいしく感じる味覚ではないだろうか。
出汁(だし)の利いた「お椀」の味わいは、「日本人」であることの喜びを感じます。
否が応でもDNAに刻み込まれている味覚です。
そのおいしさは、世界的にも「UMAMI」として認知され、フランスの三ツ星レストランでさえも、
昆布や鰹節の出し汁が使われるようになった。

しかしですよ!フランスのレストランへ行って、「UMAMIです!」などと、出汁のスープなどを出されて、我々日本人が本当においしく感じられものだろうか。
とは言うももの、日本でも「即席出汁の元」が普及し、鰹節と昆布の出し汁はすっかり駆逐されてしまった。
「出汁の味は日本だべ!」などと言っていると、フランスの出汁の方がおいしいなんて、遅れをとる事態にもなりかねんぞ。



「酸味」と言えば「夏みかん」だ。子供の頃は、あの酸っぱさに汗をかいて食べたものだ。
でも食後はサッパリとした爽快感があった。
果物の酸っぱさには甘味も含まれているので、それほど、キツイ酸っぱさは感じないが、酢の酸っぱさはキツイものだ。
ドレッシングのように油と攪拌したり、熱を加えて「カド」を取り、まろやかな酸味を出して使う。
この酢の原料も西洋のブドウ、東洋の米と大別される。

日本では大正時代に大量安価な「合成酢」が作られた。
特に第二次世界大戦中、戦後は食料難から、米で酢を作ることが禁止されていたために、ほとんどが合成酢であった。
このような状況下で料理を作っていた、我々先輩料理人の苦労が偲ばれますなぁ。
酢に限らず酒も「合成酒」で、昭和20年代の子供の頃には、父や伯父が合成酒の「花の友」を飲んでいた。
酢を餡かけ料理などの、濃い味料理に一振りかけると中和され程よい食味になる。
「酢を制するものは、料理を制する」と言われ、酸味は使い方で料理の味わいを格段にアップしてくれる。



「渋味」と言えば、昭和30年代、子供の頃に食べた「渋柿」だ。その渋さには閉口したものだ。
卓袱台に数個置いてある柿を食べるときは、トランプの「ババ抜き」のようなスリルがあった。
黒っぽい種が入っていて、しゃぶるとヤッパリ渋かった。

その頃の柿は釣鐘形で、店先にゴロゴロ並んでいるのを見ると、不揃いながら愛嬌があったものだ。
こういうものを食べていると、明るく個性豊かな人格が出来ると思うのだが。
今の柿は「種無し渋抜き」で、何もかも抜いて無くしてしまった。
さらに箱詰めしやすく揃ったように四角形である。
スーパーマーケットの陳列棚に、お行儀良く並べられているがどこか無表情である。


昨年の12月号でも掲載したが、もうひとつ身近な渋は、「小豆の渋」だ。
母が小豆を茹でこぼして渋抜きをしていた。
その小豆で作ってくれた、「お汁粉」や「おはぎ」の甘さはおいしかった。そのおいしさは温もりにある。
冷えたお汁粉やおはぎは「味の裏切り」だ。
料理人は小豆を「煮る」ではなく、「炊(た)く」と言う。
小豆を炊くと、出来上がりのおいしさが待ち遠しくてワクワクした気持ちになる。
小豆は日本人にとって、特別なおいしさを感じるものではないだろうか。


「渋い」と言えば、高倉健さんの演技もそうだが赤ワインである。
赤ワインには甘辛酸苦渋などの、様々な味わいが含まれている。
このワインの渋味は、寝かせることにより年数が経ち、その渋味や香りがまろやかに変化しおいしさに変わっていく。
この渋味や苦味は消し去るのではなく、程よく残し活かしてこそ、おいしさに変わるのだ。
おいしさの奥深さを知らされる味覚である。


「辛味」も甘味とは違ったおいしさを感じさせてくれる。
しかし辛味、渋味、エグミは味覚ではなく「痛い熱い」と同じような「体感感覚」だそうだ。
コショウは「ヒリヒリ」、ワサビは「ツーン」、山椒は「痺れる」など、それぞれ違う感覚で、
唐辛子入りの辛い料理を食べて、「口から火が出ている」などと表現する。
やはり熱い感覚である。


やはり日本人が好むのは、ワサビの鼻に抜ける「ツーン」とした上品な辛さであろう。
これほどある辛味だが、やはり料理に合った辛味があるものだ。
刺身にはワサビ、オデンには芥子、熱いうどんには一味唐辛子である。
熱いかけ蕎麦にワサビの辛さはどうにも合わない。
このように辛味には各種あり、それぞれ料理に合わせた選択肢が楽しめる味覚でもある。
しかし味覚に於いては、人それぞれに嗜好があるから、熱いかけ蕎麦にワサビを乗せて食べようと、
誰に文句を言われるものではない。
この辛味というのは不思議な感覚で、「辛いからもう食べない!」と懲りるどころか、
1に慣れたら2へ3へと、もっと辛い味を求めてエスカレートしてゆく。
辛味はストレスの軽減にも効果があるとか。しかし、どのような食べ物でもそうだが、食べすぎには要注意である。



「おいしさ」を感じるには、「味覚」「視覚」「嗅覚」「触覚」「聴覚」の五感が働いている。
ウナギやステーキが、こんがりと焼ける香りは「嗅覚」を刺激して食欲がわいてくる。
ウナギの焼ける匂いで、ご飯が食べられるとはよく言ったものだ。


「香り」は、おいしさの大切な要素のひとつだ。
というより「香りが味を決定付けている」といっても過言ではないだろう。
鼻をつまんで食べると、香りがせずに何を食べているのかわからない。
風邪をひいたときに、鼻が詰まって味がしないのと同じだ。

料理の香り付けには、ハーブとスパイスがよく用いられる。
特に西洋料理においてスパイスは欠かせぬ調味料だ。
このスパイスを求めて17世紀にはポルトガル、スペイン、イギリス、オランダがインドや東南アジアへ向い
海を始める。
スパイス獲得権をめぐり、各国間で衝突がおき経済戦争にも発展した。
当時スパイスは料理の香り付けや、肉の腐敗防止に用いるのはもちろんだが、
特にナツメグやクローブなどは、ペストなどの「疫病の特効薬」として珍重された。
しかし欧州からは遠方の東南アジアでのスパイスの獲得には困難を極めた。
そのため、当時スパイスは「金」と同じ価値があり、スパイスを独占することは、
その国に莫大な利益をもたらすのだ。
結局オランダがスパイスの貿易権を独占する。
ジャイルズ・ミルトン著「スパイス戦争―大航海時代の冒険者たち」
(原題「NATHANIEL’S NATMEG」ナサニエルズナツメグ)には、スパイスの独占権を巡る、
イギリスとオランダの間で起こった凄まじい歴史が著されている。
本の題名にもなっている、主人公のイングランド東インド会社の「ナサニエル・コートホープ」は、
国王ジェームズ1世からスパイス獲得の密命を受けて、バンダ諸島のルン島に上陸する。
しかし登場するや否や、すぐにオランダとの戦闘で戦死してしまうのだ。
 本の最後に「ナサニエルズナツメグ」の意味が、なるほど!と納得する結末である。
スパイスの歴史に興味のある方は是非読んでほしい。
その後19世紀半ばには、原産地からスパイスの木が、運ばれた地域で移植栽培され入手が容易になり
価格も安定する。  
普段当たり前のように使っているスパイスも、その歴史を知るにつれて、
軽々しく扱えないなという気持ちになる。
 欧州の人々がスパイスを求めて、どれほどの思いで船出し海を渡ったのだろう。
農耕民族魚食文化の、我々日本人には到底理解の及ぶところではないようだ。
スパイスの香りには、命がけで海を渡った、当時の人々の「情念」が宿っているのではないだろうか。


料理に一番身近なスパイスはコショウだろう。
普段からローリエ、ナツメグ、クローブ、コリアンダー、ターメリックなど、十二,三種類は使っている。
ラムのローストにはタイム、ハンバーグにはナツメグ、ブイヤベースにサフランなど、
料理とスパイスの組み合わせは、長い歴史に培われ調製されてきた。 
そんな先人たちの料理に使うスパイスの知識、探究心にはただただ頭が下るばかりだ。

しかし、スパイスは使い方を誤ると料理を台無しにしてしまう。使う時には、くれぐれも慎重に・・・。



その香において、人々を惹きつけてやまない食材は、なんといっても「トリュフ」だろう。
トリュフの香りは、愛好家にとって、その価値は「黒いダイヤモンド」となりうる。「どんな香り?」。
この香りをなんと表現したらいいのか?
始めに感じた香りは「海苔の佃煮」だった。「土」「ホコリ」「汗」・・・。 
簡単には表現できない「神秘的」な香りとしか言いようがない。(言葉足らずでスイマセン)

近年はフランスとイタリア産共に、トリュフの獲得高も減少するばかりで需要は増す一方だ。
そうなると、必然的に価格は高騰する。
黒トリュフで通常価格はkg15~16万円。
需要が増える年末繁忙期のクリスマスシーズンになると、価格はkg20万円程度になる。(高値過ぎるべ!)
イタリアのピエモンテ州 アルバ産の白トリュフになると、価格はkg50~60万円以上だ。
黒いダイヤモンドに対し、こちらは「白いダイヤモンド」と呼ばれる所以である。
そんな価格高騰のために、近年中国のヒマラヤ産も市場に出回っている。
それでも価格はKg 1万円だが、そのものは「似て非なるもの」で、
フランス産やイタリア産トリュフの奥深い香りには及ばない。
これからも、トリュフの妖しい香りは、その価格と共にトリュフ愛好家の心を惑わすばかりだ。



「食感」「触覚」もおいしさを感じる大切な要素だ。
煎餅を「パリパリ」かじる小気味よさ。
タクアンを「ポリポリ」噛む口中の響きなどは「聴覚」を刺激して、まさに「おいしい音」である。
パリパリとは逆に、なめらかな舌触りも好ましい触味だ。


近頃のお客様は、プリンやムースのような柔らかくなめらかなものに、おいしさを強く感じる傾向にある。
特に最近の若い女性の多くが、好きな食べ物に「生クリーム」をあげる。
「ホイップ」した生クリームなのだ。

若い女性に限らず、現在はみなさん柔らかくなめらかな舌触りがお好みのようだ。
そのなめらかさに、「パリッ」とした食感でアクセントを付けると、食べていて楽しい。
アイスクリームに添えられた、ウエハースの食感がまさにそれだ。

それとば逆に、固い歯ごたえのある食べ物が敬遠されるようになった。
煎餅やかりんとう、キャラメルや飴など、昔に比べたら食べられなくなった。
それとナマコやドライフルーツを噛むときの「圧感覚」もある。
歯茎に食い込むあの食感だ。
イチジクのドライフルーツに齧りつき、歯茎に「ギュウッ」と食い込んでくるあの圧感覚が大好きなのだ。


にぎりずしを摘まむと、シャリの温もりや、にぎり加減などを手に感じます。
その手は意識する、しないに関らず、多くの情報を感じ取っている。
箸で豆腐を持つ、ステーキをナイフ、フォークで切り分けるなど、「触覚」でもおいしさを感じ取っています。
寒い日に湯気の上がる、肉饅頭を両手に持ち「フーフー」するなんて、格別に「おいしい触感」になるでしょう。


フランス料理では、手に持って食べる料理は少ない。
骨付きの肉料理とパンだろうか。だから、お客様にお出しするパンの温度には、気を使った。
ほんのりと温めたパンを手に取ると、そのぬくもりで、お客様は「このパンは、おいしい」と感じ取ってくれる。
この温かさと、冷たさ「温冷」もおいしさには大いに関係している。
暑い夏の日に、冷えた麦茶を「ゴクッ」と飲む、おいしさは最高である。
ぬるいスープや、融けたアイスクリームなどをお出ししたら、お客様にお叱りを受けるだろう。

この温冷におけるおいしさも時代によって違っている。
子供の頃は、スイカやトマトを盥(たらい)に入れ、ポンプで汲み上げた地下水で冷やしていたから、
10~14℃のおいしく味わえる温度だ。
今は冷蔵庫で冷やすので、5℃くらいの冷え過ぎた味わいになってしまう。
今のように冷凍冷蔵庫が無い時代だから、アイスキャンデーは、お店で買って家に持ってくる間に
融けてしまうので、夏の陽射しの中で歩きながら食べたものだ。
齧りついたアイスキャンデーが棒から外れて、足もとの砂利に落としてしまったときはガックリしたな。
落としたアイスキャンデーの口惜しさといったら。今思い出してもハラが立つ。


料理人を志した昭和40年では、調理場でも氷冷蔵庫を使っていた。
今の電気冷蔵庫のように送風式ではないので、食品にラップを被せなくてもよかった。
でも下段に融けた氷の水滴が落ちるのは困りものだった。
冷蔵庫が一般家庭に普及して、食品を冷蔵保存出来便利になった。
でも昔のように、食べ物を塩漬けや糠漬けなどの保存の工夫をしなくなった。
冷蔵庫に食品を保存してもおいしくはならない。



「視覚」も香りと共に、おいしさを決定付けている。
人は目で見て「イチゴだ、バナナだ!」と物を判断している。
食べたことがあるものなら、その味が思い浮かぶ。目隠しをして物を食べると、味が分からないことがある。
さらに目隠しして鼻をつまむと、何を食べているのか味が判断出来ない。
ある実験で、シャーベットに香りを付けて着色せずに食べると、何の香りか区別できないという結果が出た。
又、色合いと違う香り、例えば苺色のシャーベットにバナナの香りを付けると、
実験した半数以上が味や香りを間違えるそうだ。


最近「視覚」の受けるおいしさが、「表示」にも影響されている。
例えば「おふくろの味」「有機栽培」「産地直送」などの表示だ。
スーパーマーケットで「朝採り、産直」と表示された方が「新鮮、おいしそう」の印象を持つ。
野菜でも「オーガニック」と、表示されているだけで「おいしい」の先入観を持ってしまう。
オーガニッは農法であって「おいしさ」ではないのだ。


レストランのメニューにも「シェフ手作り」「○○さんの作った野菜」などと表記されていています。
「だったら、おいしいわよね!」みたいな気になる。
特に日本人はこうした表示やブランドに、弱いとされている。
表示にウソはないのだろうが、「視覚の先入観」が「おいしさ」に与える影響が大きい。

テレビのバラエティー番組で、こんな実験をした。
新しい靴下を、片方は洗濯の物干しに吊るし、もう片方を椅子に腰掛けた臭そうなおじさんの足元に
丸めて置いておく。
交互に靴下の匂いを嗅いでもらうと、九割の人達がおじさんの足元の靴下が「クサイ」と答えた。
「視覚」も「嗅覚」も、まず「先入観」の影響を受けて、「味覚」の正確な判断になるとどうも不確かなようだ。



ではおいしい料理を出せばいいのか、食べたらいいのか。というとそればかりではない。
まわりの雰囲気「環境」も大切だ。どんなにおいしい料理でも、騒音のなかでは食べる気がしない。
やはり、落ち着いてゆっくりと料理を味わいたいものだ。

それに、「ひとりで食べる」というのも味気のないものです。
いかに名シェフが作った料理でも、ひとりではおいしさも半減する。
高齢化社会を迎えて、ご老人の一人暮らしが増え、朝昼晩の三食を一人で摂る「弧食」が増えているそう。
独居老人に限らず、家族と同居していながら食事時間が揃わず、一人で食事を摂る人も多いという。
朝食は摂らない、外食が増える、家庭で作る料理も冷凍品や出来合いのものが多くなった。
食に関するさまざまな環境が変わり、昔のように家族そろって卓袱台を囲み、
食事を摂るといった風情がなくなった。
やはり、家族や気の合う友人、恋人と語り合い食事をするのは楽しいものだ。

孤食とは違うが、ひとりで隠れておいしい物を食べるという、楽しみもなくはない。
戸棚に隠した、一個しかないシュークリームを、家族の目を盗み一人で食べるのは格別おいしい。
知人の女性は、ご主人が寝静まった夜に、「一個200円の梅干を、一人密かに食べるのが楽しみ!」
と言っていた。
チョット「不倫」にも似た妖しい雰囲気で。(やってくれるね。こういう女性大好きです)


おいしい料理には、もうひとつ忘れてはいけないのが「お酒」である。
「酒なくて なんの己が 桜かな」の諺(ことわざ)があるように、
料理をおいしくしてくれるのは「お酒」でしょう。
これ以上のものはないですね。
特に料理とワインの組み合わせは、食卓を楽しくするものです。
ワインには多くの香りが含まれている。特に上等なワインになると、より複雑な香りと味が感じられる。
料理とワインの組み合わせは限りなくあり、それが食卓の楽しみでもある。


ソムリエの方達も、料理の香りにワインの香りを合わせています。
ソムリエの田崎真也さんの著書「言葉にして伝える技術―ソムリエの表現力」では。
お客様に言葉で伝えるワインの香りは、白ワイン92香、赤ワイン55香が表記されています。
一般的にワインの香りは、500以上あるといわれています。
飲食物でもっと多くの香りが含まれているのはコーヒーで798香気成分があるそうです。

ワインもコーヒーも、その蠱惑的な香りゆえに、人は惹きつけられるのでしょうね。
魚料理には白ワイン、肉料理には赤ワインとは、昔からよくいわれる。
「カキにシャブリ」の組み合わせは、昔から定番のような組み合わせですね。


ブリア=サヴァランは言っている、「チーズのないデザートは片目の美女である」と。
お酒のない食卓は、さしずめ「顔のない美女」であろうか。
日々の味覚を探求し、お客さまに味わっていただく、おいしい料理は景気を回復させる「原動力」にもなるのだ。
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