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3月号の「バブルへGOO!!」では、バブルの発生と崩壊を著した。
「バブル景気」は、日本が戦後の焼け野原から、コツコツと復興への努力を積み上げて来た結果でもあった。
日本は敗戦の痛手から、何故これほどまでに復興を成し遂げられたのか。


1945年(昭和20年)8月15日の終戦から今年で67年が経った。
戦争があったことさえ知らない若い人達のためにも、今ある日本がどのように歩んで経済大国と成り得たのか。
先月に続き池上彰さんの「やさしい経済学」を参考に、戦後の日本復興の道のりを経済学から振り返ってみたい。



「戦後のインフレ対策 新円切り替えと封鎖預金」
1945年8月15日、日本は終戦を迎えた。
外地にいた約330万人の軍人、軍人以外の軍属者の復員や引き上げが始まる。
‘46年京都の舞鶴港には軍人、軍属者が中国本土から104万人、東南アジアから79万人、
旧ソ連から45万人など約310万人が帰還した。

二葉百合子さんが歌った「岸壁の母」は、外地から帰らぬ息子を舞鶴港で、
日々出迎える母の実話をもとにした歌だ。
「♪母は来ました 今日も来た この岸壁に今日も来た・・・」、生死不明で復員名簿に息子の名前はないのだが、
「♪もしやもしやに ひかされて・・・」と、母の切ない気持ちを歌ったものだ。
子供の頃はこの歌の意味が分からず聞いていたが、今は子を持つ親として、涙なくしては聞かれぬ歌である。

戦争に敗れ日本軍はなくなり、帰還した軍人や軍関係者に「退職金」が一斉に支払われた。
又政府も軍発注物資の代金支払いを強行実施したために金融流通が膨大した。
お金は溢れていたが、敗戦争直後の日本には物が無い。猛烈な「物価の値上がり」になる。
お金はあるのに物が無い、急激な「インフレ(インフレーション)」状態になる。
日本政府はインフレ対策が急務となった。


世の中に出回っているお金を減らすために、「新円切り替え」と「封鎖預金」を行ったのだ。
’46年2月に日本政府は、「古いお札は廃止して、新しいお札でないと使えなくなりますよ!」
と国民に呼びかける。

古いお金をすべて銀行に預金させ、新円に交換させる政策だ。これが「新円切り替え」である。
その上で、その預金を一度に全部引き出すことが出来ないように、「封鎖預金」を実施する。
古いお金を銀行に預けさせて、新円を引き出す金額に上限を設けたのだ。
世帯主300円、家族一人当たり100円を引き出せる制度にした。
給料は500円を新円で支払い、残りは封鎖預金にする。
これによって世の中に出回っていたお金が激減し、日本政府は戦後のインフレ退治に成功する。

頭いいね!経済を理解して行う制度はうまくいくのだ。
しかし、新円切り替えでは新しいお札が間に合わずに、現行の紙幣に証紙を貼り付けたもので
代用する事態となった。
当時この制度に不満を持つ人は当然多かったのである。


北朝鮮が2009年、インフレ対策に通貨単位を100分の1に切り下げる、
「デノミ(デノミネーション)」を行った。
デノミとは通貨の呼称単位を切り下げる事だ。
日本なら「100円は新1円」とするものだ。
北朝鮮では1世帯あたりの、新貨幣切り替えへの交換上限は旧貨幣で10万ウオン(約3、000円)を掛けた。
しかも旧札を新札に替える期間は、たったの1週間である。
日本なら1億円持っていても、3,000円以上の預金は紙クズになってしまうのだ。
如何に経済危機とはいえ、実に乱暴なやり方である。
この政策は更なるインフレを招き大失敗に終わる。
この政策を考え実行した、当時の北朝鮮経済相は、金正日総書記の怒りをかい粛清されたとか・・・。
この経済相も、日本の「封鎖預金」の歴史に学んでいればねぇ・・・。
今日本でこのような「デノミ」などを行ったら暴動が起きるだろう。
こうして戦後の「新円切り替え」「封鎖預金」は、インフレ対策に一定の効果をみせた。



「財閥解体」
戦後の日本はマッカーサー率いる連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に占領された。
これによって日本の独立は失われ、以後6年に渡り統治される。
そうしてGHQは、日本が何故戦争へと突き進んだのか、その原因を探るため経済学的に分析を行った。


1945~‘52年にGHQが行ったのが「財閥解体」である。
戦前の日本は、「三井財閥」「三菱財閥」「住友財閥」「安田財閥」などの、
大きな企業グループによって日本経済は牛耳られていた。
財閥一族が、三菱○○や住友△△などの、子会社を何百と作り経営者を任命する。
その会社の株を保有し、利益はすべて財閥一族に上がってくる仕組みである。

財閥グループの独占企業のために、各企業間での自由競争が起きずに、経済が十分に発展しなかったのだ。
更に「労働組合」が禁止され、賃上げ要求が出来ないために、労働者は低賃金で消費が伸びない状況であった。
財閥の独占的企業経営、労働者の低賃金などが原因で、新天地である中国や東南アジアへ、
資源を求め進出して行ったのが、戦争を起こした原因でもあると分析したGHQは財閥を解体する。

労働者は低賃金だったが、財閥本社の正社員は高給で、東北北海道出身のお手伝いさんを雇い、
暮れのボーナスは東京都内に家一軒買えるほどの額であった。

今なら都内に土地家屋を購入するとなると5.000万円程だろうか。(スゲー!)
在職中に家を数軒買い、引退後はその家賃収入で悠々自適の老後を送っていた。
現在も「格差社会」などと言われているが、当時の格差は今よりも大きかったようだ。

そこでGHQは、労働者の賃金が上がり消費が活発になると、経済が発展して生活が豊かになる。
そうなれば国外に侵略することも無くなるだろうと考えたのだ。

「労働者の給料が増えると経済が発展する」は、まさしく「ケインズの経済学」の教えである。
GHQは‘45年に「労働組合結成」を推奨し、‘46年3月に労働組合法が施行された。
同年5月1日には、禁じられてきたメーデーが11年ぶりに復活し、皇居前広場(宮城前広場)に
50万人もの人々が集結した。

これを機に多くの労働組合が生まれ、‘47年には組合員が500万人を突破する。
すべての労働者の占める組合員の割合が60%の時代もあった。

しかし最近は激減し労働組合員数の割合は、2010年には18.5%にまで落ち込んで入る。
GHQによって財閥が解体され、その経営陣は戦争責任を問われ「財界追放」となる。
そうした旧経営者陣には高齢者が多く、後数年会社を勤め上げれば、毎月給料は貰えて、
退職金も出るといった考え方で、経営方針も「現状維持」的な守りの姿勢であった。

しかし財界追放で経営陣が一掃され、社長、副社長には30~40歳代の若い世代が就任するようになる。
今まで「なんぼやったって、オレたち社長になれないよな・・・」と、愚痴っていた若い世代が
重役に就任したものだから、張り切って仕事に励むようになる。
これから会社で30~40年も働く事になる。
それならば会社を発展させよう、大きくしようと、様々な新規事業を企画実行していくのだ。
旧経営者の「守り」から、「攻め」の経営姿勢へと転換していったのだ。
こうして日本企業の経営陣は一挙に若返り、経済は活性化していく。


しかし、その後には、この経営陣も「オレが作った会社だ!」、「オレが大きくした!・・・」と
自負があるから、60代70代80代まで会社に居座り、若返りが図れない状態になってしまう。
旧経営陣が財界を追放され、自分達が若き経営者となり、日本経済を発展させてきたのに、
次世代を育てられない結果となった。
世の中は常に流動的だ。
経済も例外ではなく、その時代の流れを受けて、次世代に引き継ぐことも経営者の責任でもある。
GHQの「財閥解体」で、日本経済は新しい時代を迎えたのだ。




「農地解放」
戦前の日本は、財閥同様に大地主が土地を所有し、小作人を使って農業を行っていた。
しかし農業生産は伸び悩み、日本の食糧事情は悪く慢性的な食糧不足に悩んでいた。
その原因をGHQは、大地主に使われている小作人の利益が低いため、生産意欲が無く、
生産が伸びないと分析する。
その解決のために、農地を大地主から小作人に分け与え、農作業に励むようにしたら生産量が上がるだろうと
考えたのだ。

‘46年に農地を大地主から小作人に分け与える「農地解放」を実施した。
今まで厳しい農作業で作物を収穫しても、すべて大地主に摂取されていたのが、
これからは作れば自分の利益になるのだ。
こうなると俄然やる気になるのが人の情であろう。
霜が降るとなれば、焚き火で畑の周りを暖め、台風が来たら雨風を防ぐように努めるのだ。
GHQの分析通り、農地解放以後の生産量は爆発的に上がったのだ。

しかし、これまで収穫物の運搬や販売は大地主がすべて行っていたので、イザ収穫しても、
小作人はそれらをどうやっていいのか分からない。
そこで作られたのが「農業協同組合」農協で、現在の「JA」である。

中国では毛沢東(もうたくとう)が、‘58年から「大躍進政策」の名の下に、農工業の大生産政策を行った。
中国では土地は国の物だが、農民達は「人民公社」の社員となり、多くの人達が共同生活しながら、
みんなの土地を、みんなで耕し、みんなで収穫する政策を行った。

夜明けから日暮れまで、農作業に強制従事させられるために生産意欲が湧かない。
しかもみんなの農地であって、自分の農地ではないのだ。
霜が降ろうが、台風が来ようが、「知ったこっちゃ無い!」と無関心である。
そのために農業生産量は激減し、自然災害も重なり、大躍進政策は3年で大失敗に終わる。
その結果餓死者が出るなど、長く食料不足に苦しめられる。

しかし毛沢東没後の、中国の指導者鄧小平(とうしょうへい)がこれを改め、
土地を農民それぞれに請負労働での農業政策を行った。
「農作物の一部は国に納め、残りは農民の収穫利益にしてよい!」との政策を行った。
とたんに農業生産が劇的に伸びたのだ。やはり「自分の利益」にならないと、人はやる気にはならないのだ。
鄧小平は身長150㎝の小柄で、ナポレオンの身長156㎝ より低いために、
「唐辛子風味のナポレオン」というあだ名がある。
毛沢東は彼の性格を、「綿中に針を蔵す」と表現した。
綿で柔らかいと思って掴むと刺される、人あたりは柔らかいが芯は固いの意である。

 北朝鮮では農作業を奨励する、ブラスバンドのような「激励隊」が、
「ガンバッテ農作業に励みましょうと、農家を回って歩くそうだ。
「働け!働け」と毛沢東のような政策を行っているのだが、農業生産量は伸びず、
飢え死にする国民が増えているのが実情である。
自分の利益にならないのに、上から「働け!働け」と言われても労働意欲は湧かないだろう。
「働けば豊かになる」仕組みにすれば、人は一生懸命に働くのだ。

日本ではGHQの農地解放政策によって、農業生産が向上し戦後の食糧不足解消につながったのだ。
料理長、シェフ諸君!若い人達のやる気をうまく引き出しているかい?




「傾斜生産方式」
 日本は戦後復興に向けて、電力エネルギーを確保するのが急務であった。
子供の頃(昭和20年代)は、昼夜問わず停電が頻繁に起り、いつ復電するのかわからない時代だったな。
様々な産業を振興させるためには、電力エネルギーが不可欠であった。
戦争で壊滅状態にあった、発電所を復興させるために、電力にすべてのエネルギー、すべての力を、
一方的に注ごうとしたのが「傾斜生産方式」である。
火力発電には石炭が必要であった。

しかし、戦争のために炭鉱は乱掘され落盤事故など危険な状態だった。
その鉱内を補強整備するためには鉄が必要になった。
鉄を作ろうと計画するが、鉄は製鉄所で鉄鉱石を溶かして作る、その溶かすエネルギーには石炭が必要なのだ。
しかし炭鉱は危険な状態で石炭を採掘できない。
石炭がなければ鉄が出来ない。
鉄が無ければ炭鉱整備が出来ない。
石炭が無ければ鉄が作れない。
石炭が無ければ発電所が稼動出来ない、
二進(にっち)も三(さっ)進(ち)も行かない状況に追い込まれた。

そこで日本政府は、鉄工所を稼動させるためアメリカに「重油の援助」を申し込む。
その重油で鉄を作り、炭鉱を整備し石炭を掘り出した。
その石炭で発電所を稼動させ、電力を家庭や産業に供給したのだ。

電力を供給することで肥料工場も稼動し、肥料が作られ農業生産の向上に役立ったのだ。
僕の生まれた砂川市豊沼町にも、三井東圧の肥料工場があり、
子供の頃は朝出勤する大勢のオジさん達が逞しい背中を見せながら、
国道を塞(ふさ)がんばかりに自転車を走らせ、工場へ向かって行ったのを思い出す。
オジさんたちのあの姿も、国の政策「傾斜生産方式」の現われだったのだ。

こうして発電所が復旧し、電力は経済を活性化し、人々の暮らしを灯し豊かにしていったのだ。
傾斜生産方式は見事に成功したのだ。




「朝鮮動乱」
1950年6月25日朝鮮戦争勃発する。6月25日この日を韓国では、「6・25ユッイオ」と呼ぶ。
北朝鮮軍が韓国に奇襲攻撃をかけてきたのだ。
これによって韓国軍は総崩れとなり後退を余儀なくされた。
韓国軍支援のためにアメリカ軍が国連軍として参戦した。
韓国へ派遣されたのは、日本を占領していたアメリカ軍であったため、日本に軍隊がいなくなってしまった。
当時すでに東西冷戦が始まっており、ソ連軍の日本侵攻を懸念した、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥は、
同年8月に日本政府へ7万5千人の「警察予備隊」の創設を指示する。
‘52年8月には沿岸海上警備隊が創設され、‘54年7月には防衛庁(防衛省の前身)が設置され、
陸海空からなる自衛隊が誕生した。この朝鮮動乱のため、アメリカから軍事物資が大量に発注される。
この「朝鮮特需」によって、日本経済が大きく発展してゆくきっかけとなった。

その後韓国は、朝鮮動乱でアメリカ軍が支援してくれたことへの恩返しのために、
‘60~‘75年のベトナム戦争で、アメリカ軍支援のために韓国軍を派遣する。
これによりアメリカは軍の物資を、韓国に発注し「特需」となり、その後の経済発展へとつながるのだ。




「貯蓄増強運動」
戦後日本経済発展のためには、工場を作り生産を増やすことが不可欠であった。
その工場建設には資金が必要である。
しかし銀行からお金を借りようにも、当時日本はまだ貧しく銀行にはお金がなかったのだ。
そこで‘52年(昭和27年)から、政府は国民に「貯蓄増強運動」を大々的に奨励する。
国民のお金を銀行に集め、国政に役立てようとしたのだ。

子供達にも手持ちのお金や、お小遣いを銀行に預けて貯金をしましょうという、
「子供銀行」などの教育指導をしてゆく。
ここから日本人の「貯蓄好き」が始まったと言われているが。これはあくまでも推測である。

これは僕も記憶がある、「学校貯金」だ。
小学校1年生の時(昭和30年)、同級生達は1~2円を家から貰ってきて貯金したが。
僕は伯父さんから貰った、1円札10枚、そう10円を担任の尾谷先生に、「ハイ」と言って差し出した。
それを見た同級生一同から、「スゴーイ!」と感嘆の声があがったのだ。
なんか自分が他の同級生よりも、お金持ちのような気分になって、少し誇らしげな顔だったべ。
思えばかわいい子供だったなぁ!
こうして日本国民一丸となって「貯金!貯金」に励んだのである。

当時1円は札だったのだ。(写真参考)これは大切に保管していた手持ちの1円札である。
仏壇の引き出しに入れてあるので、チト線香臭いぞ!

こうして銀行に預金され、企業に融資して日本経済の発展に役立っていく。
メキシコに「キッザニア」というテーマパークがある。
入場料を支払い、そのテーマパーク内だけで使えるお金を受け取り、それで買い物をする。
又職業体験でお金を稼いだりできるのだ。
日本の経営者が、それを見て「これは面白い!」と、メキシコの「キッザニア」と提携を結び、
「キッザニア東京」を開設した。
メキシコの子供達は、稼いだお金は全部使い切って帰って行くが。
日本の子供達は、次に来る時に備えて、パーク内の銀行ATMに、たっぷり貯金して帰るそうだ。
日本とメキシコの子供達のお金に対する意識の違いが表れている。
キッザニア東京の子供達のお金に対する意識も、戦後の「貯蓄増強運動」から、
引き継がれているのだろうう?・・・。




「所得倍増論と社会資本整備」
1960年(昭和35年)当時の池田勇人首相は「所得倍増論」を表明する。
池田首相は、「・・・設備がどんどん増えれば、生産が伸びる。
生産が伸びれば、1人あたりの所得が増える。所得が増えれば、政府は減税をする。
生産が伸びれば、所得が増加する。所得が増加すれば、減税をする。
減税をすれば貯金をする。
貯金をすれば潤う。
雪だるま方式であります」と、これから10年で国民の所得を倍にするという、とてつもなく景気のいい話を
持ち出したのである。

これを聞いた国民の大半は「なにを馬鹿なこと言ってんだ!」と、冷ややかに受け止めた。
父も「おおっ給料が倍になるぞ!」と、冗談半分に言っていたのを思い出す。

これを実現するために、池田首相は大蔵大臣に田中角栄を起用するなど、個性溢れる政治家を内閣に揃え、
政府の経済政策の姿勢を明確に打ち出していく。
こうして「戦後復興期から高度経済成長期」へと移行してゆくのである。
まず日本の経済を更に発展させるためには、物流を活性化する必要があった。

そのためには、道路や港湾整備が急務であった。
こうした「社会資本整備」に国家予算をつぎ込んでいく。
今風に言うと「インフラ整備」である。
というのも、戦時中ゼロ戦(零式艦上戦闘機)を、名古屋の工場から、岐阜のかがみ原の飛行場まで運ぶのだが、
トラック輸送だと、舗装されていないガタガタ道のために、ゼロ戦が破損故障するおそれがある。
そのために牛車で恐るおそる、運んでいたのだ。
日本海軍が当時世界一の性能を誇ったゼロ戦を運搬するのに、牛車で運ぶとはなんとも笑えぬ話である。
日本の道路状況はそれほどの劣悪さであった。


子供の頃(昭和20年後半)砂川に住んでいた時は、国道12号線は舗装されていたが、
三井東圧の社宅などの生活路は砂や砂利が敷かれただけだったな。
石炭などを運搬するにも馬車を使っていたから、馬糞が道に落ちていたのだ。
今の若い方達は、田舎の人でもない限り、馬糞など見たことはないだろう。
それが風に吹かれて舞い上がり、「馬糞風」などと、たいそう迷惑がられた時代だ。

戦後アメリカの調査団が、日本の道路状況を視察のために訪れ、舗装されていない日本の道路を見て、
「日本には道路予定地はあるが、道路は無い」と本国へ調査報告を送った。
アメリカでは「舗装されていて始めて道路」なのだ。
これでは戦争に負けるわな!

そのような道路状況を改善しようと‘64年に「東海道新幹線」、‘
68年には「東名高速道路」「名神高速道路」などが開通し、東京と大阪、日本の東西を結ぶ大動脈が完成したのだ。
これによって国内の物資の流れがスムーズになっていき、工場で作られたものは全国各地へ、
港からは海外へ運ばれ輸出も伸びていくようになる。
この新幹線や高速道路建設資金は、「世界銀行」から借り入れられた。
東京駅には「東海道新幹線は世界銀行から借りたお金で作られました」という碑が残っている。
この頃、理工系の大学、学部を増やしてゆく方針がとられた。
そこで技術者を育て企業や研究所に就職させ工業の発展を図っていったのだ。

こうした工業化によって、工業用水やチッソなどの廃液たれ流しによって、付近の住民に悲惨な被害が及ぶ。
4大公害の1910年岐阜県の「イタイイタイ病」、‘56年「熊本水俣病」、
‘60年の「四日市ぜんそく」、‘65年の「新潟水俣病」が、大きな社会問題となる。
公害問題は高度経済成長が産み出した影の部分である。




「高度経済成長期」
さて政府が所得倍増と表明したことにより、労働組合は会社側に賃上げを要求する。
企業もこれから景気が良くなり、製品が売れるのだからと昇給に応じていく。
国民が冷ややかに受け止めた、池田首相の所得倍増論が現実のものとなった。
そうして各企業は所得増を見込んで製品を増産していく。

その当時の憧れの製品が「3C」と言われるもので、「Cooler(クーラー)」
「Color Television (カラーテレビ)」「Car (カー)」であった。
クーラーで暑い夏は涼しく快適に。
テレビはカラーで見られる。
日曜日には家族揃って車でドライブだ。
こうしたものは、「お隣が買った!」と分かりやすく、「じゃ家(うち)も買おう」となって、
次から次へと需要が伸びていった。

しかし、クーラーはまだまだ一家に一台とはいかず、まずは会社に取り付けられた。
そうなると夏の暑い日々、夕方仕事を終えて家に帰ってもうだるような暑さに辟易する。
それならクーラーで快適な会社に残って仕事をしよう、残業代も付くというサラリーマンが増える。
こうして高度経済成長期には、会社で夜遅くまで仕事に励み、家族家庭を省みない、「モーレツ社員」が生まれた時代である。
そんな人達の勤勉さが積み重ねられ、日本経済は発展してきたのだ。




「東京オリンピック」
敗戦の暗い日本を明るくしたニュースもあった。
‘49年の古橋廣之進さんの水泳世界新記録樹立、湯川秀樹博士のノーベル賞受賞。
‘56年には荻村伊(おぎむらい)知(ち)朗(ろう)さんの卓球世界選手権優勝などが、
日本人を勇気付けてくれたのだ。

しかし戦後の日本人の意識を大きく変えたのは、‘64(昭和39年)年に開催された、
「東京オリンピック」であろう。
東京オリンピックが決定したのは‘59年(昭和34年)で、わずか5年間でオリンピックの準備を
突貫工事で行ったのだ。
思えば戦後からわずか19年目で成しえた快挙であった。


当時中学3年生だった僕は、テレビ中継で五輪選手村の調理場で帝国ホテルの村上信夫料理長が
フライパンを振る姿に憧れて料理人の道を志したのだ。

現在は大都会となった東京だが、当時の川にはゴミや生活排水が捨てられ、
悪臭を放っているような環境であった。
東京都は1兆円余りの予算を計上し、ドブ川を整備し、暗渠には蓋をして、バラック小屋の建物は
塀で覆い隠すなど、街の美化運動が推進された。

川を埋め立て道路が拡張され、路面電車は廃止され地下鉄になる。
東京都内に高速道路が走り、羽田と都心を結ぶモノレールなど交通網の整備が行われた。
世界初の超高速鉄道、東海道新幹線が開通し、日本の鉄道技術の高さを世界に知らしめた。

海外からのお客様を向かえるための、ホテルが不足していたため、国は60億円を融資して
ホテルの建設を支援した。
生きて動いている外国人を見るのは、始めての日本人もいたのだ。
当時日本初の17階建て高層ホテルのニューオータニなどは、オリンピックの前年4月1日に着工し、
翌年の昭和39年9月1日に完成させる超突貫工事だった。

東京オリンピックのために、すべての準備が整ったのは開催の一ヶ月前であった。
又バーやキャバレーなどの風俗営業は、改正風俗営業法により、深夜営業禁止となったのもこの時期である。
オリンピック建設ラッシュの陰で、浅草海苔の生産者たちの漁業権放棄など多くの犠牲も強いたのだ。
当時は事務職の女性を「ビジネス・ガール」、BG(ビージー)と呼んでいた。
しかし外国人に、ビジネス・ガールでは「商売女」と間違われると、雑誌が改正名を一般公募し、
現在の「オフィス・レディー」O・L(オー・エル)に決まったのだ。


又オリピンピック会場などの、警備に就く警察や自衛隊などの人手が足りず、
日本初の民間警備会社「日本警備保障」(セコム株式会社)が創業されたのもこの頃だ。
記念切手や硬貨が発売され、又「東京五輪音頭」が街中に流れ。
アテネから運ばれた聖火が日本中を駆け巡り、オリンピックムードは更に盛り上がった。

前回の‘60年ローマオリンピックの男子マラソンで、エチオピアのアベベ選手が、裸足で走り優勝し
「裸足の王様」と呼ばれ、日本でも大変な関心が寄せられていた。
マラソン当日、テレビ中継でアベベ選手がシューズを履いて走っていたので、「裸足じゃない!」と、
チョットがっかりしたのを覚えている。
アベベ選手は東京オリンピック男子マラソンでも優勝して、男子マラソンで初のオリンピック2連覇を達成した。
日本中がその開催を待ちわび、成功を願う気持ちがひとつになったのは初めてであろう。
東京オリンピックの開催で、日本は暗かった敗戦国からの脱却を図り、世界に誇れる国となったのだ。
このオリンピックを契機に、旧日本家屋はビルになり、街並みや生活様式、食習慣が変わり始めた。
日本は急速な欧米化へと突き進んでいく。




「豊かな国」
1960年代後半から‘70年代前半にかけ、日本人の生活は段々と豊かになっていく。
そうして、当時は夢だった海外旅行ブームがやって来る。
今や日本では年間9万本もの国際線が離発着するようになったが。
戦後20年間日本政府は、外貨不足を理由に海外渡航を制限し、旅行は国内に限られていたのだ。


‘63年に「業務用渡航」が承認され、外貨持ち出しは年間総額500$以内であった。
‘64年には、年1回限りの「観光渡航」が承認され、その後段階的に緩和され、
‘66年に観光渡航の回数制限が撤廃ようやく自由化された。当時大学卒の初任給が2万5千円だった時代に、
10万円以上もするパック旅行が、「アッ」と言う真に完売したのだ。

当時「JALパック」などのパック旅行がブームで、憧れのハワイやパリに出発したね。
高度経済成長期には次々に工場が作られ、住宅が建てられた。
そのために農地が買収された。農家の人達は、農地を売りお金が入ってくるようになる。
そうすると農協主催の「海外旅行ツアー」がブームになり、大挙してアメリカ、ヨーロッパへ
海外旅行に繰り出した。

初めての海外旅行で不慣れな習慣に様々なトラブルを起こしている。
ホテルの部屋にキーを置いたまま部屋を出ると、オートロックのドアがパタンと閉まってしまい、
部屋に戻れず、下着姿のままで廊下に立ち尽くしまったり。
又パリの一流ホテルのロビーを、腹巻ステテコ姿でうろつき回り、大顰蹙を買ってしまう。
そのために、ホテル側では、「下着姿で部屋を出ないで下さい」などと表示した時代だ。

昭和40年~50年代に、テレビ放映されたドリフターズの「8時だよ!全員集合」のキャラクターで、
加藤茶さんが扮した「はげずらおやじ」である。
ステテコ腹巻、禿げ頭のオジさんが、パリの超高級ホテル「ジョルジュⅤ」のロビーをウロウロする姿を
想像してみてくれたまえ。
蛇足になるが、はげず(・・・)ら(・)おやじ(・・・)の正式名は「加藤茶太郎」である。


又パリの「ルイヴィトン」などの、ブランドショップに大勢で押しかけ、品物を全部買占めていく。
日本人の団体客が来ると、店頭にある商品がなくなってしまうことが次々と起きたのだ。
このような日本の団体ツアー客が、世界中で顰蹙を買った時代であった。

このような事を‘90年代になると韓国人が、海外でやり始め、2000年代になると、
中国人が同じようなことを世界中でやっている。
生活が豊かになり、経済的に余裕が出来ると海外旅行に行きたくなるのだ。
しかし、海外での「ルール、マナー」を知らずに行くと色々なトラブルを引き起こしてしまう事になる。


こうして戦後の日本はGHQと政府による、様々な政策によって世界一の経済大国へと成長してきたのだ。
今「東日本大震災」で、福島原発が壊滅し電力不足が課題となっている。
又財源不足による増税方針や、不景気による労働者の賃金カット、就職難などが国民生活に重く圧しかかっている。
かつて私達の先輩達が、戦後の日本復興のために行った、「インフレ対策」や「傾斜生産方式」、
「所得倍増論」などの、明確な政策を打ち出した姿勢を、今一度省みる時ではないのか。


先月も記したが、若い人達にもう一度この言葉を贈りたい。

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」

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